心を失わない自分語り


『自分語り』という言葉の存在を知りました。

自分自身のことについて(、大抵の場合、誰にも聞かれていないのに、勝手に)語ってしまうこと。

自分語りとは - はてなより引用




この定義だと、ブログで自分の意見や思いを語る場合において、かなりの比率で 『自分語り』 をしてしまいそうです。



物理的に対面する会話の中でなら、短い文章を相手に投げかけて返すというキャッチボールをすることがあります。

しかし、ブログは一方的に一人の書き手が意見や思いを述べ続けます。

記事を書いている段階で、話の腰を折られたり、チャチャは入りません。



また話に数字や具体例を入れるとより話がわかりやすくなりますが、この具体例でもブログなどの場合自分の経験がその役割を多く果たすことが多いと思います。こうしたらああなった。私はこうだった。あの時はそうだったと述べるしかないのです。



自分の経験があって今の想いがあり、意見が述べられる。過去の自分があって今の自分が存在する。だからこそ聞かれもしなくてもブログで過去の自分の経験や自分自身を語る場面は多いと思うのです。



しかし、自分を語るというのは難しいです。

「人の話は聞くけれど、自分の話はしないよね」と私はよく言われます。

学生時代は、自分のプライベートな話をしなくても一日の大半を一緒にすごす友達との生活で、わざわざ自分の話をしなくても共通の話題はたくさんありました。

自分自身の話は、聞いてくれる友達との情報を知っているバランスが悪いです。

どうしても私の方が深く知っています。そういう偏った情報というのは、よほど相手に有益な情報で無い限りつまらないと思われる可能性のほうが大きいのではと思ってしまいます。



だから、私は聞かれもしないのに自分のことを語るのは苦手なのです。聞かれれば隠すようなこともあまり無いので快く答えると思います。積極的に語って喜んでもらえるほど、私自身が面白いのかといわれるととても困ってしまいます。

逆に友達の個人的な相談や話を聞くのは嫌いではありません。自分とは違う経験や言葉の受け取り方、感じ方。そういう考え方もあるのかと教わることの方が多いからです。たいした受け答えはできないけれど、黙って頷くだけでも許してもらえるのならば、聞くことが多いです。



自分以外の心の情景、動きは計り知れなく見えないものです。

そして見えないからこそ、わかりづらいし敷居が高い。だからといってズカズカと入り込もうとすれば、デリカシーの無い奴のレッテルが待っています。

こうしたことから、他人の心には踏み込まないもの、踏み込ませないものという先入観もあります。



でも、ブログはどうでしょう。

不特定多数に見られてもいい個人的な日記、吐露の場。

私が思ったこと。私が感じたこと。私が食べたもの。私が行ってきた場所。

主語が 【私】 であることがほとんどです。

そしてそういう行為を許された場所であるとも認識しています。



ある議題を求められるから書くのではなく、有益ではない情報、特定の誰かに限定しない一日の報告。

個人的なオリジナルの意見、経験に即したある意味自分自身に偏った意見を述べてよい場だと思っています。



だた、自分の発した言葉には責任がある。一度出してしまったものを無かったことにはできないのが言葉であったりする。

正直に真摯に向き合って言葉を発したい。自分に嘘はつきたくない。だけれども独り言じゃない。自分にも知らない他人にもある程度の責任がつきまとうのがブログの独り言。



自分自身が自分を知り尽くしていないのに、むやみやたらに私の意見ですとその場の勢いで書き散らしていいのか。毎回録音したテープレコーダの再生のように同じ話を繰り返していいのか。もし有益な情報として立ち寄るオーディエンスが存在するのなら、つまらない凡人が何にも無い一日を語るのは回線やサーバーの負荷に対する冒涜なのか。

 『自分語り』 がどうというより、私個人が私の経験に基づいて、または過去からのつながる今を語る行為が難しいと感じます。



ただ、自暴自棄とい言葉があります。

一時の感情でガーっと書き散らしてしまう時。憤慨の興奮が冷めやらぬ時。打ちひしがれて乱れた気持ちをそのまま放出してしまう時。

これも素直な気持ち、そのときの正直な気持ちではあります。

心が大暴れしすぎて、一時でも心を手放してしまった時。

この時の自分語りは、 『暴走した自分語り』 もしくは、自分語りを模した 『黙って聞け』 の押し付けになる場合もあるのではと思います。



『黙って聞け』 というのは、たいてい聞く側のことなどお構いなしの強制と感じることが多いです。身構える準備も与えてもらえない。だから聞く側は重荷に感じたり、苦痛を覚えるのでしょう。聞いて欲しい、わかって欲しい時ほど、人の意見を聞く。黙って自分を沈め、自分を拾う行為も大事なのかもしれません。そして回想や思いとして、自分のいさめとしてプロセスをゆっくり語る 『自分語り』 になれたのなら、それはそれで有意義な話ではないかと思うのです。