個と異。


初めての環境に出逢う時、良い意味でも悪い意味でもカルチャーショックを受けることが多い。
私は、新しい環境に馴染むのにとても時間がかかる。
人とのコミュニティにしろ、ツール、場所、習慣。
学校のクラス替えは、慣れてきたかなという時に、またクラス替え。
学校自体の空気も馴染めるかなと思う頃に卒業。
我ながら適応能力の遅さには、うんざりしてしまう。


それでも体験を積むと、過去に行った似たような環境を当てはめて
現状の環境が把握しやすくなってくる。
応用できる経験のカードを当てはめられるようになってくると、
未知で何もわからなかった環境も、
戸惑いから興味、恐怖心から好奇心へと変化していく。


好奇心とはもう、私にとっては遊び心の最たるもの。
知りたい、やってみたい。もっと、もっとの連続になる。
興味のあることの失敗や傷つく経験とはまた良くできたもので、
心の闇になる糧になるどころか、
将来手にできるかもしれない更に楽しいことのデータの一つとなって構成されていく。


もちろん、私のように不器用な者は100通りある組み合わせの中から、
たった一つの正解を導き出すのに、1回目でヒットすることは皆無に近い。
たいてい、90回以上のトライの末たどりつければよい方。
100回目でやっとわかったなどという、本当に全部のケースをトライすることが殆どである。
その中には、全通りの結果を知りたくて1つ1つ試してしまうことも多い。
また、100通り全て通してみても、100個の違いの見分けがつかず、
もう一度1からやり直しというループを何度も踏むこともしばしばだ。




【異文化】 というフレーズに惹かれた。*1


【異文化】 とはなんだろう。


文化ということは、独りの人の様式や感覚ではないのかな?と思った。
けれど、私は大勢の中での私の位置を見つけることが下手だ。
大勢といわれても私の許容は、私の目の前で私に直接語りかけてくれる人。関わる人。
2つの目、左右の耳、両手で感じ掴み取れるのは私とその相手1人2人が限界。
私 対 文化 での対応は難しい。


私も生活の中で、様々な文化の中の一員となって組み込まれているであろうに。
自分の所属する文化を理解していないのかと笑われるかもしれない。
身近では、家族で、職場で、友人関係で。
もっと広く、日本人として、地球人として、ヒトとして。
法律や道徳、様々な約束や決まりごとの中で生きているはず。
それでも個人というのか?


外で振舞う私は、なるべく周りの足並みを乱さないように気をつけてはいる。
子どもの頃からの想いや思考に基づくロジックと大人の世界の当然とされる事柄。
なんとかスイッチを切り替えながらあわせるようにしている。
社会ってそんなものなのかなと自分に言い聞かせて。


しかし、私の内なる感覚は社会性や協調性を切り離して進むことが多い。
時間はかかるが、あれこれ試さないと気が済まないのだ。
無駄でも野暮でも考えられるだけのケースを当たらないと理解できないのだ。
だから、大勢いっぺんには比べられない。
いつまでも幼い頃の想いを大切にするなんて、とあきれられてしまうと思うが、
私はこの何かによってフィルターのかからない素直に 「なんで、どうして」 という想いが
悪くないと感じている。
濁ったり混ざれない分、自意識が強すぎると判断されてしまうが、どうしても捨てたくない部分なのだ。


そんな私が感じる、異 ということ。
私と私ではない人が異なるのは当然のこと。
これも見えない大きな勢力や組織相手に異を唱えるのは難しそうであるが、
対人関係は 「私とは異の関係」 といえそうだ。
「私という個」 と 「私以外の異という個」 の遭遇。


そんな私がその異なるものと接触する時は、どのような段階を踏むだろうか?


Phase-0 : 情報収集。恐怖。構想。
Phase-1 : 驚き。興味。疑問。
Phase-2 : 違和感。親近感。
Phase-3 : 検討。考察。
Phase-4 : 分類。理解。




各フェーズについてと思ったが、長くなってしまったので、この先はまた日を改めてにしたいと思う。

*1:1day,1page のわたりとりさんの記事、 『5つのアクションを、50%メソッドで書いてみた。』 を拝見しました。こちらの記事は、 『異文化との接触』 について考察されていらっしゃいます。その 【異文化との接触】 というフレーズに惹かれこの記事を起こしました。思考構造の様式を真似させてはいただきましたが、どんどん私の内側、自己問答に入ってしまったので、直接本文内容に関われませんでした。そこで、ここで記事内リンクに留め、トラックバックは控えさせていただきました。