異なるものと接触する


Phase-0 : 情報収集。恐怖。構想。

Phase-1 : 驚き。興味。疑問。

Phase-2 : 違和感。親近感。

Phase-3 : 検討。考察。

Phase-4 : 分類。理解。


前回の記事で
「私という個」 と 「私以外の異という個」 の遭遇。
そんな私がその異なるものと接触する時は、どのような段階を踏むだろうか?
と考え分類してみた。


各フェーズについて、少し詳細をいれてみたい。



Phase-0 : 情報収集。恐怖。構想。


これは、『異なるものと接触する』前段階、準備である。
私は臆病者で、できるだけ突発や唐突は避けて通りたい。
しかし逃げることができない事情に迫られた時。


情報収集。
不必要なほど情報を集め、シュミレーションを繰り返す。
どんなものなのか、どういうことなのか、相手を新しい場を少しでも想像の範囲に据えるため。
知らなかったら、見えないかもしれない。
認知できないかもしれない。
相手を正確に見ていない前知識、前勉強だからピントはズレ、使い物にならないかもしれない。
余計に迷ったり、いらないフィルターにしかならないかもしれない。
それでも、かすってでもいいから、予習。
実際にあまり役に立つことはないので、単なる自己満足でしかない。
時間と体力の無駄遣いでもあるだろう。
それでもつい調べたくなってしまう。
もう儀式みたいなものだ。


恐怖。
これも重要だ。
初めてのヘリスキー。
初めてのモトクロス。
新規のプロジェクト。
これらに挑む時。
無邪気に希望に胸を膨らますだけでは困り者である。
物事には陽と陰。正と負の部分がある。
危険を知っているからこそのチャレンジがある。
危険を知って無理だとしり込みすれば、今は時期ではないのだ。
またできる時まで封印なり、先送りも可能だ。
その危険感知には意味も理由もあるかもしれない。
何も知ろうとせず、考えず無邪気に推し進めてしまうより、結果として怪我をしなくて済むかもしれない。
ヒトは恐怖を感じ、それでもなおそれを乗り越えたい、怖さに先を知りたいと願い、勇気や気力を振り絞った時、
知識や知性を得られるチャンスに出逢えるように感じている。


恐怖や畏怖に、鈍感にはなりたくはない。
その感覚が本能から喪失した時、関連するもろもろの感覚もまた眠り退化して
広がりを覚えることもできない、カチカチの凝り固まった思考や理念に縛られ、
身動きが取れずいたずらにもがき苦しんでしまいそうだから。
数センチの浅瀬でバタバタと溺れる。
冷静に立ち上がることを考えることのできる私でいたい。


同じように、今は無理と判断し撤退できる能力もまた、自己管理、制御が良くなされ適切な価値観だと思う。
後になればなるほど、状況は厳しくなることを覚悟して。
いつかは正面きって立ち向かうしかないことは、十分念頭において。


構想。
情報収集を経て、およそ私が陥り犯すであろう数々の異常終了を予測しだすと、後はテストデータ作りだ。
正常データは通って当然。またそうそう数も多くない。
逆に失敗に終わる異常終了は考えられるだけ列挙し、全ての思いつく事象をテストで通したとしても漏れが出ることが殆ど。
それが初めての『異なるものと接触する』でもある。
やらないよりはマシと言わんばかりに、テストを通して行くしかない。


一通りテストが終わっても、気休めにしかならない。
しかし、失敗データを幾つか出していく過程で、見えてくることもある。
これから挑むヒト、場所に対して、冷静に己を落ち着ける時間を持つこともできる。
今、私にできることはやったという自信も適度な開き直りもある。
自己暗示に近いかもしれない。


時間がない時は緻密に綿密にとはいかないが、考えられる最悪のパターンを想定し、そこでいかに行動するのか。
私が社会人になって厳しく教えられたことだ。
最悪のパターンを超えてもっと最悪な事態を引き起こすこともあるし、まったく異常なパターンに引っかからない場合もある。
それでも、ある程度シュミレーションすることで、私は突きつけられた危機的なパニックに迷走することなく、何度か救われたことがある。
実際、最悪の局面でパニックして呆けていることを許されるわけもないのだが。
少しずつ訓練して、私は仕事でも日常でもこの方法で挑むことが多くなった。

Phase-1 : 驚き。興味。疑問。


実際に『異なるものと接触する』場面の最初である。
「触れる」 よりは、観る、感じるといった段階だ。
少し野生児チックな私は、延髄を通って脳みその理性判断へ行かず、
第六感ではないが感性の部分が大きく揺さぶられる。


初めて火に手をかざした時のヒヤリとする気持ち。
氷が指にピッタリとへばりつく、皮膚の引っ張られる不思議。冷たいと聞いていたのに熱いと感じること。
風に頬や髪が揺れ、鼻をくすぐる季節の匂いを感じ取った時。
刃物を触って指を切ったときに、皮膚の切れ目、血の出方。痛いのに何が起こったのか分からずドキドキしてしまう。
初めて外で転んでアスファルトに打ち付けられたとき。膝の痛み。胸を打ち付けての息苦しさ。鼻がツーンとする感覚。
膝ががくがくと笑って力が入らない戸惑いと移って来るおかしさ。


何もかも知らないから。初めてだから。
びっくりする。
でもこれは何。あれは何。興味津々で質問攻めの方が先立ってしまう。

一度興味を持ち、疑問に思えばもう後は、次から次へと好奇心の矛先は縦横無尽に向けられる。
疑問がとめどなく湧き上がり、手当たり次第に試して、聞いて。
飽きるまで永遠に『異なるものと接触する』世界に浸っていたい。
「触れた」という事実よりも、身体で感じた感覚や感想が優先される。

Phase-2 : 違和感。親近感。


『異なるものと接触する』も数度(浅く、少なく)の逢瀬を経た段階。


最初のカテゴリ付けとでもいうのだろうか。。
りんごとみかんは果物という分野では同じ物だけれど、りんごとみかんは違う果物。
りんごも小石も同じ物体と判断することもできるから、
りんご5個と小石3個。合わせていくつ?
という算数の問題が出たりする。
私の感覚では、合わせてもりんご5個と小石3個。
もしくは、全部あわせるのだから1個。


算数という数式、また出題者の意図は私の世界とは違うところに存在する。
私は自分の世界をとても大切にしている。
しかし、出題者の意図、目的、気持ちもまた存在することも知らされてきた。
だから、8個。
という解答も用意するようになった。
こういう手持ちのカードをたくさん持ちたいと思っている。
たくさんのプロセス。たくさんの想い。
受験勉強のようにランクや点数。決め付けられた答えに解放された今だからこそ、
『いろいろあっていいよね』と微笑んでいたい。


似ているようで、違うもの。
違うようで、似ているもの。
詳しく見比べていくと感じてくる。


その結果がどうなのかは、次の段階。
ここでは現実のデータとして、ある見方をすれば同じ物なのに、
違う切り口、違う角度から見たら全く別物であることを思い知らされる。
円柱や三角錐
クルクル回して、いつまでも悩ましい想いにさせられたものだ。

Phase-3 : 検討。考察。


『異なるものと接触する』と自分自身の立ち位置や距離を考えはじめる。


知り合ったはじめてのもの。
自分の経験値、記憶というデータの中のどこに置いたらいいのだろう。
海馬の図書館にどのラベルを付けて保存しようか。
一元的に処理することはできない。
でも複雑に交錯させてしまえば、のちのち取り出す時にこんがらがって、せっかくのデータが意味をなさない。
紐付け、関連付けは?
実体験がいくつもの事象に重なる場合は?


モノをあっちかこっちかと動かして。
一度はめたピースをまた外して。
時には途中まで組み立てたものを根こそぎザザァーと振り払って。
まっさらのゼロに戻して、溜息をついて。
何度でも組み直す。


もどかしくて、埒があかなくてイライラすることもある。
何でもいいから結論付けて楽になりたい時もある。
実際、休憩と称して、しばらくほっぽり出してしまうこともある。
結局、新しいことを身に付けたくて好奇心に負けて、またテーブルにつくのだ。


試行錯誤のループは、メビウスリングのようにほどけたかと思うと更に遠く長く伸びてしまう。

Phase-4 : 分類。理解。


『異なるものと接触する』中で、ここは終着点と考える。


残念ながら、私はこれまでこの域に達することはなかったと思う。
血の繋がった両親といえども、「親」というカテゴリだけでは収められない部分はたくさんある。
私の父であり母であっても、独りの男性や女性であり、人であり生き方も感覚も価値観もまるで違う。
私にとっては、「親」であるが、両親にとっては、父と母は「夫婦」である。
男女の想いや絆は、たとえ娘であっても計りがたい。とても分かった気になどにはなれない。
そういう意味では、両親も常に今だもって『異なるものと接触する』になる。


理解する。なんて九九を丸暗記をするようなわかりやすくて単純なロジックではとけないなと感じる。




各フェーズについて、振り返ってみると、
フェーズが進むにつれ説明が少なくなっていることがわかる。
またふわふわで、夢物語のようだ。
それだけまだフェーズが0や1から進むことが少ないのが現状だ。
まだまだ分からないことがたくさんある。知りたいこともたくさんある。


『異なるものと接触する』といいながら、私の一方的な考えばかりじゃないか
という突っ込みもあると思う。


それで正解だと思うのだ。
私は私の価値の中で私自身の想いや位置、距離の取り方は語ることができる。
これすら実は気分により、日により変化したり折れ曲がったり歪んだりすることもある。
迂回してそのままどこかへ行ってしまったきりなんてこともしばしばだ。


私自身の想いや考えでこの不安定さだ。精度のなんと低いことよ。
なのに、私ではない誰かの気持ちを代弁できるはずなどない。先回りなんてもっての外だ。
勝手に自分の尺度で、相手を解釈し決め付けてどうなるというのだ。
決め付けた先に目的の相手などいないのだ。


私は心理学者ではない。
私は人の心が読める能力者でもない。
何が見える。何がわかる。
りんごの気持ちがわかるのか。
ジャングルの性格を把握するのか。
私の未熟な経験値から導き出される予想の範囲で、こんなはず、あんなはずと悶々とするのか。
外れたら裏切られたって言っちゃうのか。恨むなら自分のバカさ加減を恨むしかないだろう。


結局一人相撲。
勝手に自分で作り出した幻の相手が登場するのだから、シャドーボクシングだろうか。
誰かと交わることは、マットに沈めることではない。
二度と立ち上がれないように叩き潰して、顔面を踏みつけることではないだろう。


初めてのことって痛い思いをすることが多い。
怪我をして覚えることも多い。
接触は痛くて怪我をしてしまうけれど、不快なことなのだろうか?
ワクワクやドキドキ。もっともっとや次は次は。はないのだろうか?


敵は『異なるもの』なのか。
本当にそうなのか?
自分自身の臆病な弱い心。傷つけられたくない、かたくなな気持ち。
いつだって自分を攻撃するのも、甘やかすのも、誉めてくれるのも。
自分自身。
それ以外、誰もいないのではないのか。
やり場のない怒りを、自分可愛さのあまり自身に向けられず、
誰かできるだけ自分から遠そうな人に押し付けてはいないだろうか。
自問自答してしまう。
私は私なのだ。
誰かに接触するのも、そこで何かを感じるのも私なのだ。


こんにちはとにっこり笑って挨拶できただろうか。
差し出された手の温もりを感じながら、穏やかに握り返せただろうか。
私の緊張を乗り移らせてはいないだろうか。


『異なるものと接触する』
私は今まで生きてきて、たくさん出逢ってきた。
不用意に触って、錆びさせたり、腐らせたり、壊したものもあるかもしれない。


好きな人、嫌いな人。
いい人、悪い人。
都合がいい、都合が悪い。
これらを安直にふるい分ける便利な道具を、私は持ち合わせていない。
網目の広さは調節可能なのか。
全てが均等なのか。
誰がふるいのスタンダードを決めるんだ。


変化球も知らずストレート勝負ばかり。
壁を見つけては体当たりの連続。
この経験の中から、私の道具が生み出せるといいな。
美形じゃなくても、愛着のあるたくさんの人の想いが詰まったもの。


恐怖、畏怖が導いて、教えてくれる、興味、好奇心。
大きな宇宙の中の一つの星、地球に生息する私。
未知と異界。その中の遺伝子と遺伝子。
そこから形成された細胞と細胞がくっ付いて、ここにいる。
息絶えて、土に混ざるまで。
まだまだ『異なるものと接触する』は限りなく続く。