楽しく遊びたい


私の考える議論。

意見交換。もしくは意見共有。

共有とは口当たりのよいものだけを保有するとは限らない。

敢えて毒を最大限の武器、資料としてもつ場合もある。



私が議論をする場合。

複数人でするとしても、あくまでも私対1人の相手。

私対Aさん。

私対Bさん。

・・・

・・・

となる。



私たちは……という数の倫理で押すことはない。

複数の総意に惑わされない、基準は私。



これがオレ様で済ませたい場合は、議論はいらない。

拡声器を持ち高いところに立って、演説を繰り広げればよい。

それで「正しい」と同意してくれる人の中で、ぬるま湯に浸っている方が気分もよく気持ちもいい。



しかし、同じ血ばかりの交配は種を弱めていく。

違う外の血を入れなければ、偏ってしまう。

偏るということは、ウィークポイントを作ることになる。

だから議論をする。

意見を交換し、共有する。



考えも及ばない遠くの視点であればあるほど、魅惑的で強力な武器になる。

もちろんそのためには、その遠くの視点を受け入れ消化し肉や血に変えなければならない。

肉体改造とは辛いものだ。

もともと鍛えようと強い意志がない場合、

決して身に付けることができないことを無理やり行おうというのだから。



無駄。

そう切って捨ててしまうと身も蓋もない話だ。

キレイに言ってしまえば、人の好奇心や向上心。

もっと知りたい、もっと良くなりたいという欲のなせる業。



興味のない人から見れば、議論をしている姿なんて、

血に飢えた狼が牙をむき出して引っかき噛み付いている野蛮さか

なんでも手に入れたい強欲な下劣さ映ることだろう。



言葉を使って耳から入る情報を元に思考を巡らせ、口から言葉を使って伝える。

顔をつき合わせて行う場合はこうだ。

相手の目を見て、表情や雰囲気、呼吸や様子のアシストを最大限に利用しやり取りを深めていく。



ブログの場合。

背景の様子を伺うことは難しい。

寸止め。ここまではいけるけれど、これ以上はマズイという加減が掴みにくい。

読解力や自分の経験から相手にも配慮したくても、やりすぎて手遅れになってしまうことがある。

殴り合い(したことはないが)でも自己主張でも、相手を再起不能にしてしまっては、当初の目的は達せられない。



もし相手もそれなりに議論に慣れていて、同意の上ではじめたとしても、さじ加減は難しい。

ただ慣れているから、さじ加減の難しさや多少の怪我を覚悟しているし、受け入れる体勢もできている。

これが議論に慣れていない人やする気のない人を、自分のリングに上げてしまったらどうだろう。

こちらが一方的に持っている武器や技を繰り広げることになる。

たまたま私の見えるところにその人が存在していて、

『ここにいるってことは、それなりの覚悟はできているはず』

というこれまた私の一方的な価値判断で引きずり込む。



いきなり襟首つかまれて、誰だかわからないリングにあげられた人は、さぞかしパニックすることであろう。

かけられた技の意味もわからず、その回避方法も受け方もしらないのだ。

サンドバックよろしくただの殴られ損。

更に勝利宣言に跪かされる。

人生最大のツイていない日になることだろう。



同じフィールドに存在すれば、誰かれかまわず同じ価値基準を持っているのか。

だとすれば、電柱やポストにもお手合わせを願わなければならないし、

木々や風、雷に同じテーブルに着けと説得しなくてはならないことになる。

この例えが馬鹿馬鹿しいのならば、ブログ上で任意の相手にいきなり

「あなたの記事についてですが、私の意見も聞いてください」

と押しかけるのもまたいかがであろう。



私ははじめ、ブログとは

「あなたの記事についてですが、私の意見も聞いてください」

と押しかけていって、遊びを楽しむ場所であり、参加者はそういう相手をウズウズして待っていると思っていた。

好敵手を、いい汗のかける時間と思考を手ぐすね引いて探しているのだと考えていた。



実際、綺麗な思考や興味深い考察をなさるブロガーさんはたくさんいる。

私など手合わせどころか噛み付くことも恐れ多いと感じることも多い。



しかしブログというツールの使い方は、「あれとこれ」というように決まってはいないようだ。

記録。

物理的であったり、心の動きであったりの日々の動きを綴り、残すことに意義を見出す使い方もある。

他にもきっといろいろあるのだろう。

一つの方法論、ルールでは縛りきれない。



それなのに、私のいち使い方を他の利用者にまで巻き添えを食らわすのは迷惑千万だったのではと
今さら疑問に感じている。

議論をやりたい人はすればいい。

そういう相手を見極めて探してくることだ。

広い大勢の中から運命の議論相手を見つけることもまた、議論というカテゴリの中で重要なプロセスの1つとも思える。

「議論はしたいが、目に付いた奴は片っ端からかみつくぜ」

となるとただの喧嘩っ早い愚か者になってしまう。





どちらにしても、人のためにしているわけではない。

どこまでいっても私のため。自己満足以上でも以下でもない。

あなたのためを思って……、などと虫唾が走りそうな台詞だけは吐きたくない。



火事だ、揉め事だと耳にするやいなや、袖をまくり、はちまき締めてとエネルギをみなぎらせていた私。

私が静かなる動じない広い懐と柔軟さ、
私にとっての清濁を気持ちよく飲むことのできる余裕が持てるその日まで

ブログで求められもしないのに、誰かに絡んでいくことは遠慮しようと思っている。