Yesマンは悪魔の使い


ブログで記事を書いていれば、その記事をきっかけに肯定記事や否定記事が書かれる場合もあります。


たいてい、肯定記事で問題になることは少ないと思うのですが、
否定記事、きっかけの記事とは異なる意見、違う切り口で展開される記事もでてきます。
1つの答えしかない意見なんてつまらない、前向きではないと分かっていても
やはり自分の意見と違う意見があからさまに突きつけられるといい気持ちはしません。
本能的に不快感が沸いてくるものです。発作的に拒否反応も起きるでしょう。


そんなことから、きっかけとなった記事の作者は悪口と捉える場合があります。
『あなたはAを赤いといっているが、私はAは黄色いと思う』などと記述するだけで荒らし認定を受けることもあります。
自分の意見が正であると根拠のない自信満々の場合は、なおさらです。


本来広く意見が集まる良い機会なのに、小さな自尊心のためにいらぬ争いを生じさせてしまうのは残念です。


そこで次に問題になるのが、
    否定記事、コメント、ブクマはしない または 否定の意見もオープンにしよう 


本能のままぶつける怨恨や根拠のない悪口なら、それを見つめる沈黙のオーディエンスが
沈黙なりの鉄槌や反応が出てくるのではないでしょうか?
また、肯定コメントへのお返しよりも、批判や反対意見を述べた相手に対してする態度こそ
自分の記事に対する本来の姿勢や想いを問われているように思うのです。
真摯に受け止めるのか、さらに調べて巻き返すのか。
受身に立つばかりではなく、受けてから攻める方法もあると思います。
憎い反対意見ならそれを存分に踏み台にし、かじり倒してから前に進む策もあるのではないでしょうか。


なので私は、
オープンで否定するのは悪くて、わからないところならOKでは、表面的な回避であって根本的な解決とは思えません。
自分以外はみんな違う意見を持っていて、それを前面に押し出されてどう思うかと問い詰められるのは、悪意ではなく、議論なのだと思いたいです。
もしくは、自分の発した考えの真剣度合いを試されているのだと受け止めたいです。
批判コメントは直接飛んでくると確かに傷は負うけれども、その分得られるものもきっとあるので
【否定は禁止】、【批判は荒らし】なんて言わないで欲しいなと思います。


もう1つ、
反対意見も大切なのは頭ではわかっていても、やはり面と向かって批判否定は辛すぎるからという理由で、
   否定の記事やコメント、ブクマはするなといわないから
   せめて否定は書いた本人に見えないところでして欲しい
という意見もあります。


傷は誰だって負いたく無いに決まってますから、心情的にはとてもわかります。
しかし、見ざる聞かざるで永遠に押し通せるものでしょうか?
なぜならネットは繋がっているんですよね。
批判が出た時リアルタイムでは回避できても、巡り巡って結局見るはめになる気がします。
実は自分以外みんながその批判を知っていて、自分だけ知らなかったなんて虚しい事態を引き起こすことにはならないでしょうか?
もっと早く直接言ってもらえれば対処できる事なのに、隠れて否定してもらったおかげで収集がつかなくなることはないのでしょうか?
いい噂は自分に届き難いけれど、悪い噂は伝搬が速いものです。


小さな親切でこっそり「どこどこのブログで批判されているらしいよ」なんて教える人もでてくるかもしれません。
そうなると逆にいつどこで何を書かれてWebにのせられているか不安になり、不快を通り越して恐ろしいと思うんです。
疑いたくなくても疑いたくなる、人間不信に陥りそうです。


否定と肯定は半分ずつ。
肯定がたくさんあれば、否定も同じ数だけあると思っていいのではないのでしょうか?
肯定が少なければ否定も少ない、つまり誰からも見向きもされない記事です。
良すぎない悪すぎない、フラットです。


リアクションを求めるということは、自分以外のあらゆる反応を受け入れるということ。
都合のいい心地よいものだけをふるい分けて得ることはむずかしいでしょう。
肯定の存在を引き立たせるのもまた、否定の大きさであったりするのですから。


肯定の反応しか受け付けないなんて歪んだ評価を求めれば、
やはり歪んだ反響しか戻ってこないと思います。