遠くで感じて、長く細く愛用して


近頃ブームとなって、多くの人が参加しているブログ。


デジタルに不慣れな女性、そして特に主婦層が大量に流れ込んだことは、
デジタルに不慣れではない層から、好奇の目を向けられることも多い。
少し蔑まされた冷たい視線は、ドライビングテクニックの評価に似ている。


しかし、その恐いもの知らずで無理そうなことでもどんどん進めてしまうような
「自分たちのテリトリーの考えやしきたりが法律で全てだ」
と根拠も無く声を張り上げてしまう彼女たちにも、悩みや悲しみは尽きないようだ。


主婦である、子供を持つ母である。
こうした肩書きやカテゴリーでうまく輪の中に納まっているように見える。
とは言うものの、やはり2人以上人が集まるとそこには社会ができる。
その中で決められた秩序や思想から逸脱することは、何にも変えがたいほど許されないし、プレッシャーがある。たとえどんなに意に染まないことだとしても。


家庭の中にいて、その暮らし方や子育てを存分にエンジョイしながら、さらに余暇としてサラリとネットと触れ合えるうちはいい。
しかし、「友達のいない寂しさ」や「社会との断絶感」をネットで解消しようと考えてBlogなどのコミュニティーに関わると難しいと思う。
人付き合いの休憩時間が長いのに、うまく立ち回るどころか普通に足並みそろえるのも
気苦労が絶えないのではないか。
公園デビューにもいろいろ掟や禁忌が存在するようで、少なからず悩ましい問題だと聞くが、ネットのお付き合いにはまだボスとか社会が確立していない分、さらにややこしいように思う。長くいる人や声の大きい人に従う雰囲気がありそうだ。


また、誰かに何かをして欲しいと願うのと同じくらい、自分は人に対して需要に応えられるほどの供給ができるだろうか。
とにかく癒して欲しい。
閉塞感から解き放たれたいとガツガツ、ギラギラした精神状態では、他人を思いやるほどの余裕はないのではないか。
共有、共感を求めているとすれば、求めた自分が本当に手を携えて前向きになれる状態かを考えれば、察しはつくはずである。
依存でブル下がられても持ちこたえることを、お互いに求め合っているのだから。
良い悪いは抜きにして、単純に無理だろうなぁと思う。


コンサルタントをしたくてウズウズしている人がクライアントを求めてネットに進出する数よりは、ケアされたい女性の方がずっと多いと思うのだ。
そのような負の要素がたっぷりの空気の中では、不満を共有するどころか、不幸の多い競争になることの方が成り行きとしては自然だ。
同意できない愚痴に賛同したふりをしたり、聞き役ばかりという場面も多くなり、かえって自分自身を追い詰めたり、苦しめてしまう状況に陥ることもあるのだろう。


もちろん、家の中で1人もしくは子供とだけしか顔を合わせない日々が続くと
変化のない毎日を疎ましく、言い知れない孤独に苛まれることもあるだろう。
世界から切り離されて、見知らぬ小島に追放されたと感じるかもしれない。


一方で結婚をしていなかったり、育児に縁のない身近な友人が羨ましくも妬ましく感じることもあるだろう。
キラキラ輝いて見えるのだろうか。
結論を言ってしまえば、
少なくとも自分だけが世の中で一番不幸だと判断するのは、思い違いか幻想である。
ほとんどが隣の芝生である。
みんな自分以外はどこかしら恵まれているように感じるものだ。


世界と断絶しているという意味では、会社勤めもかなり惨めなものだ。
朝空が白々している頃、モクモクと地面を見つめながら駅に急ぎ、
地下鉄の建物、電車の箱にぎゅーぎゅー詰め。
会社で仕事をしているとはいっても、『経費削減、合言葉は前倒し』の号令の元
どういう人月計算をして企画を通したんだ?と疑問になるようなデスマーチのオンパレード。
気が付けば、食事もお手洗いも人と会話することもすっかり忘れて、日付が変わり
仮眠を取りに家路に着く毎日。
会社の建物と同じ境遇の外界との繋がりを絶たれた人々が、表情も無く意思でもなく
無意識と反射のなせる技で進捗と計画が押し流されていく。


社会に組み込まれているのが、幸せかといえばあんまり幸せとはいかない。
闇雲に時間に追いかけられてへとへとギリギリ踏ん張っている人も多いと思う。
仕事の評価として与えられる賃金が満足のいくものかといえば、それも納得がいかない。


ネットに現実では得られない何かを求めているという意味では、誰もかれも似通っていると思う。
ただ、いくらリアルからの逃避を求めるからといって
あまりにも現実からかけ離れたものを求めすぎては、逆に落胆の度合いは大きそうだ。
ネットで知り合ったり出逢ったりする人もまた、現実では普通に人である。


せっかく現実のしがらみ(肉体とか肩書きとか)から開放されて、
いちパソコンの向こう側の人になるのだから、弾けてもいい。
共感や強調という縛りをを楽しみながら、自分勝手をイロやアクとして認知させていく喜びも享受していい。
だけれど、自分のポジションは見失ってはいけないと思う。
守るものは守って欲しい。
現実を失わせたり、目隠しするようなどっぷりネットに浸かるでもない、
ネットで自分の才能や感性を磨かせるチャンスを失わない。
人とそこそこ繋がっている、やんわりした居心地のいい、自分の居場所を見つけたいものだ。


欲張ってはいけない。
パソコンの前にドッカと張り付いていても、知識は溜まっても使う場所がない。
得たら行使する。食べたら出す。
自分自身の中に巣食う片付けられないを、すっきり整頓するためのアシスト的な位置づけが寛容だと思う。


ちょっぴりうたた寝ができる余白を作ろう。
そう言い聞かせながら、久々に記事を更新。