過去記事の自立


過去記事は書き手にとっては時系列的に過去のもの。
しかし、検索やブックマークで行き着いた読み手にとっては現在のもの。



時系列で経緯を知らないくせに、1記事だけ見て批評されたくない。
でも
頼みもしないのに、望んでいない記事まで勝手に読まれたくない。


ウェブに記事を公開しているという意識で考えれば、書き手が読み手にこう読んで欲しいこう読まなきゃイヤだというのは、俺ルールの適用に近づきますね。

しかし、


「過去記事をあるボリューム読んだら、読み手は感想を残すように」
または
「カテゴリーを制覇したい人は、管理人にヒトコト」


と嘘とも真ともつかぬようなブログポリシーやお断りを掲げてしまうのも手ではないでしょうか。
『改まって断れ』、『アクションを起こせ』と掲げてしまうと、記事の内容にプレッシャーはかかりますが、
ブログの芸風やイロという観点からは面白いかもしれません。
あくまでも洒落やお楽しみの一貫としてのお話です。
読み手や訪問者の行動を逐一ブログの管理人が統制することは難しいと思われるので、
『誤読』も『偏ったイメージ』もある程度は書いた記事の揉まれ方、成長の一貫と考えてはいかがでしょうか。


書き手にしても、いつでも過去記事や該当記事だけ読んで帰って欲しいわけではないんですよね。
記事によっては、作者が記事の冒頭や最後に関連記事や続編として過去記事に誘導する場合があります。
また、記事の上に見ている記事の前後のタイトルが記されたナビゲーションがついている場合もあります。
読んで欲しいからこそ、他の記事へのナビゲーションがついているんですよね。


だからこそ私が読み手の場合は、目的の記事が気に入ったり、前後のタイトルが面白そうだったらやはり目的以外の記事もクリックしてしまいます。
目的の記事が面白くて、その記事のカテゴリーにある記事を過去から、又は新しい順に1つ1つ読んでしまう場合もあります。


そして記事の書き手に興味を持った場合は、全記事を制覇してしまうこともあるかもしれません。
全カテゴリーを制覇するとやはり感想は出るわけで、そういう時は特に気に入った記事にコメントをする場合もあるし、そのカテゴリーの最新記事に記事のコメントを書くこともあると思います。
わざわざ「全部読みました」なんて無粋なことを書かなくても、コメントに使う単語などで、「あー、あの記事も読んだんだね」と感じるくらいが私は好きです。


記事を全部読んだからといって、書き手の時間が止まっていることも無いので、その人の影や背中を捕らえることはできません。
ブログの記事という媒体を介した時点で、書かれたことでその人全てを語ったことにもならないし、その人全てを理解することもないでしょう。
なぜなら、ブログの記事にあげるという行為が、一歩自分自身から離れた位置で書いて投稿したり、推敲したりすると思うからです。
どこかしら身づくろいしたりもしてしまうと思うんです。
勢いで書き綴っても、誤字脱字や句読点のチェックもすると思います。


逆に、全くのスッピンであられもない自分が出し切れているんだとすれば、そうとうな文章熟練者だと思います。
立体的で引き出しが複数ある人1人をブログの記事にすべて盛り込むことって、大変難しいことじゃないですか。
ブログを運営している人もしていない人でも、文章を書いたことがある人なら人なら痛感していることなんじゃないですか。


読み手として、1つのブログの常連さんになったり全記事制覇すると、ある程度その書き手との距離が縮まったと感じたり繋がりを感じたりします。
でもそれって勝手に読み手が便利なようにカテゴリー分けしたいだけです。
書き手にワンクッションの距離があるように、読み手も一定の客観性は持ち合わせていると思います。
記事によって面白いと感じるのは、ある一定の基準を設けて
「おぉ、今日はエキサイティングしているなぁ。」とか
「あれ?こういう面もあるんだ。」という驚きももらえるその為の指標。
慣れていたからこその安心がそこにあり、刺激あるいい意味での裏切りがある場所。
親近感だと思います。


過去記事が書いた本人にとってもう終わった無関係の記事だったとしても、
書き手が今現在存在し、過去記事も生きているブログの中で消去抹殺されずに表示されているのなら、過去記事は息づいて、現在の書き手や記事たちとリンクし成長し続けていると思います。


たくさんの新しい記事の下敷きとなり埋もれていても、過去記事はいつだって今の記事と同じポジションで読まれる可能性があるし、読む人たちは現れると思います。