感動を保存する

今私の住んでいるマンションは、玄関のドアを開けて外出ししようとすると、ちょうど富士山が望めるようなところにあります。
富士山は私の生まれる前からずっとそこにあって、特に何かを主張しているわけでもないのに存在感があります。
そして眺めていると、ほほぅと心からすっきりした晴れ晴れする気持ちに私はなれるのです。


しかし、こんなに大きく他のどの山よりも景色よりも目立つ富士山。
そうそう毎日いつでも見えるのかというと大違い。
どんなにお天気でも、富士山だけ雲やモヤがかかっていて見えないことのほうが多いです。
つい今しがたまで見えていたかと思うと、もう雲の彼方に消えているということもしばしばです。
自然の織り成すタイミングは、ヒトには計り知れない未知のものが多くあります。
いつしか富士山が見えるのは、ちょっとラッキーという気持ちにもなってきました。


日の高い時に見える富士山。
空の色を映したようにうす灰色の水色。
今の季節だと、まだ雪もかかっていてまさに絵に描いたような富士山。


それが夕方、日も落ちかかって西の空一画だけ、橙から緋へとグラデーションのかかった空のを背景に真っ黒にそびえ立つ富士山。
昼間の優美とは全く違う雄大なたたずまいに、あたりが真っ暗になるまで眺めていることもあります。
動かないその姿をあきもせずじっと見つめています。


こうしてお伝えした富士山。
昼間の表情、夜の表情言葉だけではなく画像でやはりお伝えしたい、お見せしたいという気持ちが湧きます。
本当に綺麗だし、すごいんだからと共感したい思いがあります。


そこで手持ちのデジカメが登場します。
ちょっと古い機種なので画素数も少なく画像が荒いのですが、昼間の富士山であれば、なんとか気持ちと雰囲気はお伝えできるほどに撮ることができます。
ところが夕方、あたりはもう暮れていて富士山あたりだけがぼんやり太陽の余韻を残しているさま。
もうこの景色こそお伝えしたいきわみなのですが、デジカメは富士山を映してはくれません。
もっと精巧でゴージャスなカメラを使用すれば映るのかもしれないけれど、私の小さなデジカメでは虚しく届かないフラッシュがたかれるばかりです。夕方の富士山を東から取るということは当然逆行になるわけで当然なのですが、無念です。


眼鏡なしでは運転免許の審査にも通らない私の裸眼ではっきりこの美しさが見えるのに。
箱を通して遠くが見えるマジックなレンズでは、何も映すことができないなんて。
皮肉というか意地悪というのか。こんな場面で人間の脳みそって遠くを見るときにもフラッシュなしで見えてしまうなんてすごいなぁ。と感じさせなくてもいいのに。風や温度までも表現することを望んでいるわけではないのに。


デジカメよ、君はこの景色をみてなんとも感じないのか。
美しいから残しておきたい、他の誰かにもお伝えしたいとは思わないのか。
私の心と記憶の中だけに静かにしまっておけとでもいうのだろうか。