2005年12月30日にいただいた記事への私の想いを。


自分が借りているサービスにおける意見交換の場なら
当然私も自分の意見を述べたいと思っていた。
面と向かう会議なら、参加して手を上げて自分の意見を述べるだろう。
それがブログなら記事を書くこと。
だから、私にとっての思うこと、私が正しいと感じて実行していきたいことを記事にした。


ちょうど議題が次から次へと出てきている頃だった。
トラックバックによる意見交換。
コメントによる様々な価値観。
時間差の少ない中で多くの意見、様々な価値に触れられる手応えが、
私にとって新鮮で刺激的だった。


私は 「議論は意見交換の延長線上」 だと考えている。
正と悪でばっさり切り分けてしまうのは難しい。
どちらがどうなのではなく、二通りにしか分類でき無いのが嫌なのだ。
十人十色なんてよく使われるくせに、こういう時だけ体制側と反体制側みたいな枠組みが嫌いだ。
人の気持ちをある特定の基準で括ってしまうのがもったいないと思う。
ましてや、声の大きい者や力のある者による偏った仕分けであるならなおさらだ。


しかし、どんどん続く議論には強者と弱者ができた。
勝ち組、負け組ともいうのだろうか。
当初私の意見は、たまたまその強者・勝ち組の側と方向性を共にした。
狙ったわけではない。
たまたま思うところや考える方向が、その議論テーマにおいては同意できるものだった。


私の中ではだからといって、いつもどんなテーマでもその人たちと同じとは限らない。
足並みを揃えたり、安っぽい仲間意識で自分の考えを捻じ曲げたり押さえることはできない。


私は人とのコミニュケーションがつくづく下手だ。
ブロガーとして尊敬したり、好感あっても、テーマがあって意見を述べる時は、誰かれお構いなしだ。
「こんなこと書いて、これから気まずくなったらどうしよう」 なんて考えない。
疑問があればそのまま記事にして問いかけるだろうし、どーんと体当たりあるのみだ。
空気なんてまるで読まない。怖い物知らずでもある。


もちろん、ある程度信頼した相手としか議論は交わさない。
私を誰かの意見に屈服させるのが目的だったり、跪かせたいだけのためにやってくる相手ならば、
喜んですぐに頭も下げるし、詫びもする。
社交辞令でなんとも思っていない相手に対して、土下座するなんてたやすいことだ。
そんなことに私のプライドは存在しない。


自分に無い視野、感覚があるから言葉を交える。
誠意をもって気持ちを伝える。
私が伝えるエネルギ以上に相手の意見や思いを自分の懐へ入れる。
それが私の考える議論だった。


話は横道にそれたが。
一回できてしまった強者・勝ち組。弱者・負け組。
この溝は広がっていった。
いや強者・勝ち組。弱者・負け組の方向や距離が悪戯に一人歩きし始めた。
人が大きな力に群れるとは恐ろしいものだ。
幻想の勝ち馬にでも乗った気になった者は、勘違いなまま次第におかしな振る舞いや思考を披露するようになる。
【無知はバカなのか。罪なのか。バカだからブログで卑屈な思いをするのか。】
そんな意見を目にするようになった。


当初、 『それなりの耐性がないなら、ネットから離れればいい』 私はそう思っていた。
知らない場だからこそ細心の注意をし、様々な情報を取り入れ、常に学ぶ姿勢が無いと危険だと思っていた。
誰かにお手軽に聞けばいいやとか、何かあってから誰かに……。という姿勢はいかがなものかと思っていた。
自分の身を自分で守らず、被害を受けたら誰かのせいにするなんて、恥ずかしいではないかと感じていたから。


しかし。
【わからないのがそんなに罪なのか。知らなければネットはしちゃいけないのか。】
と半ばやけくそになって抗議をしているブロガーさんに出逢った。
理論武装をせず、素手で叫ぶ姿に目が止まった。無謀だと思いつつも、気になった。
「規約も読まずに、サービスがなんとかしてくれないのが悪いんじゃないのかなどと勝手なことを言っている」
強者・勝ち組から指摘されたことに、とても深く心を傷つけての抗議だった。


私はそのブロガーさんが気になって、その方のブログの記事を幾つか拝見した。
議論の内容はともあれ、二手に分かれて闘っているその様子を切々と嘆いていた。
言葉は暴力であると。
一方のご贔屓の組を助けたいけれど、自分には論客達を前に太刀打ちできるだけの強力な言葉が無いと。


当時、その議論は確かに少人数のありようを責めるものだったかもしれない。
責めるほうが大人数だったとは思わないが。
そして、明らかに責めている私も含め議論の内容は間違っていなかったと今でも思う。


しかし、その影で、例えその人の手落ちによることが発端だったとしても、
その手落ちの人のために悲しむ人がいることを知った。
悪い奴が責められて当然。それでも、その悪い奴のために心を痛めている人がいるのだ。
信者だから。そういう見方もある。
しかし、それでは正論を振りかざす側には手落ちがなかったのか。


正しいことさえ言っていれば問題ないと思っていた私の立ち位置が
大きく揺らいだのは、この時だった。
偏ることは良くないと、冷静な判断を歪めるだけだと心していたのに、
いつのまにか正論の美酒に酔いしれてしまっていた。
自分の意見に、あんなに嫌がっていた所属に私は自惚れているのではないのか。
いい気になって、ふんぞり返ってはいないのか。


それから私は、その【わからないのがそんなに罪なのか。知らなければネットはしちゃいけないのか。】
と悲しむブロガーさんと何回かやり取りをさせていただいた。
自分で知ろうとすることは難しいことなのか。
思ったことを記事にして、主張することは難しいことなのか。
尋ねてみた。


答えは、
ブログというツールに対する、使い方の違いなんだと思った。
道具は使う人の手によって、同じものでも姿を変える。
良くも悪くもなるといえば、手垢の付いた嫌味な言い方であるが、
その結果の良し悪しの手応え、感想もまた人それぞれなのだ。
誰かが悪くて、誰かが偉いんじゃない。


議論だ意見交換だ喚起扇動だなどと面白くも無い堅苦しい場だけに、使わなくてもいいんだなと思った。
脇が甘い。それもブログなのかもしれない。
システムのことを考慮すれば……。そんなの一部のシステムに知識がある人の屁理屈なのかもしれない。


ネット、パソコン初心者。
私もネットデビューがブログでビューのようなもので、やっと1年とチョットという期間である。
パソコンの機械的な構造も詳しくないし、そもそもパソコンの存在を知って、触ってからの日も浅い。
到底偉そうなことをいえた義理ではない。
ネットのこと、ブログのこと。パソコンのこと。知らないことだらけだ。
私にとってネットもパソコンも情報を得るツールとして今だに刺激的である。
「ネットで調べて、こんなこともわかっちゃってすごいね」
と素直に思える。


そして、記事で意見を発信することに躊躇するようになった。
もともと私は感情もむきだしの語調強めなところがある。
自己主張なんだから、ある程度自信を持ってきっぱり言わないでどうする。という気持ちもある。


でも私が叫ぶことで、誰かを傷つけるのか。悲しませるのか。
それは間違っていないのかと悩んだ。
そんな主張はいらないとさえ思える。


今でも悩みながら記事を書いている。
書くのが難しい、伝えるのは難しいと思うのは、あなただけじゃない。
語彙や文章のテクニックなんて表面的なことは、たいした問題でもない。
見てくれと舌ざわりのいい表現なんて、ショーケースの向こうにたくさん溢れている。


でも感じる心は大事にしたい。
例え180度相反する場所に立っていても、私はあなたの意見や気持ちに対して
間違っているなどとは思わない。蔑むなんておこがましいこともあり得ない。


だから、どうか自信を持ってこれからも発言して欲しいです。
私にあなたの気持ちや意見を理解する耳と心の幅を与えて欲しいと思います。
私はあなたの記事を拝見して、何度もなるほどと心を動かされたり、
これまで露も知らなかったことを教わりました。
「いいお話だな」 と温かくなったことも何度もあります。




これが私の答えになります。
こうしてみると私ってずいぶん自分勝手に主張していますね。
上から目線で生意気のオンパレード。
私も自分の書いてきたものを時折振り返りながら、恥ずかしさに悶えたり、
反省しながら地中深く穴を掘って私自身を突き落とし、2度と出てこられないように蓋をしてやりたいくらいの思いにかられます。
迷ったり、躓いたり。
こんなもどかしさを繰り返しながら、私もブログというツールを楽しんでいます。


どうか笑いながら、
「ふーん。そんなもんなのね」と感じていただけたら嬉しいです。
こんなに長くお待たせしてしまって、申し訳ありませんでした。


そして。
あなたの強い意見発信に出逢え、突き動かされました。
そこから、私は自分の足元をみるチャンスに恵まれ、考えを深める時間を持つことができました。
この貴重な縁に、心から感謝いたします。
どうもありがとうございました。