過去記事の自立


過去記事は書き手にとっては時系列的に過去のもの。
しかし、検索やブックマークで行き着いた読み手にとっては現在のもの。



時系列で経緯を知らないくせに、1記事だけ見て批評されたくない。
でも
頼みもしないのに、望んでいない記事まで勝手に読まれたくない。


ウェブに記事を公開しているという意識で考えれば、書き手が読み手にこう読んで欲しいこう読まなきゃイヤだというのは、俺ルールの適用に近づきますね。

しかし、


「過去記事をあるボリューム読んだら、読み手は感想を残すように」
または
「カテゴリーを制覇したい人は、管理人にヒトコト」


と嘘とも真ともつかぬようなブログポリシーやお断りを掲げてしまうのも手ではないでしょうか。
『改まって断れ』、『アクションを起こせ』と掲げてしまうと、記事の内容にプレッシャーはかかりますが、
ブログの芸風やイロという観点からは面白いかもしれません。
あくまでも洒落やお楽しみの一貫としてのお話です。
読み手や訪問者の行動を逐一ブログの管理人が統制することは難しいと思われるので、
『誤読』も『偏ったイメージ』もある程度は書いた記事の揉まれ方、成長の一貫と考えてはいかがでしょうか。


書き手にしても、いつでも過去記事や該当記事だけ読んで帰って欲しいわけではないんですよね。
記事によっては、作者が記事の冒頭や最後に関連記事や続編として過去記事に誘導する場合があります。
また、記事の上に見ている記事の前後のタイトルが記されたナビゲーションがついている場合もあります。
読んで欲しいからこそ、他の記事へのナビゲーションがついているんですよね。


だからこそ私が読み手の場合は、目的の記事が気に入ったり、前後のタイトルが面白そうだったらやはり目的以外の記事もクリックしてしまいます。
目的の記事が面白くて、その記事のカテゴリーにある記事を過去から、又は新しい順に1つ1つ読んでしまう場合もあります。


そして記事の書き手に興味を持った場合は、全記事を制覇してしまうこともあるかもしれません。
全カテゴリーを制覇するとやはり感想は出るわけで、そういう時は特に気に入った記事にコメントをする場合もあるし、そのカテゴリーの最新記事に記事のコメントを書くこともあると思います。
わざわざ「全部読みました」なんて無粋なことを書かなくても、コメントに使う単語などで、「あー、あの記事も読んだんだね」と感じるくらいが私は好きです。


記事を全部読んだからといって、書き手の時間が止まっていることも無いので、その人の影や背中を捕らえることはできません。
ブログの記事という媒体を介した時点で、書かれたことでその人全てを語ったことにもならないし、その人全てを理解することもないでしょう。
なぜなら、ブログの記事にあげるという行為が、一歩自分自身から離れた位置で書いて投稿したり、推敲したりすると思うからです。
どこかしら身づくろいしたりもしてしまうと思うんです。
勢いで書き綴っても、誤字脱字や句読点のチェックもすると思います。


逆に、全くのスッピンであられもない自分が出し切れているんだとすれば、そうとうな文章熟練者だと思います。
立体的で引き出しが複数ある人1人をブログの記事にすべて盛り込むことって、大変難しいことじゃないですか。
ブログを運営している人もしていない人でも、文章を書いたことがある人なら人なら痛感していることなんじゃないですか。


読み手として、1つのブログの常連さんになったり全記事制覇すると、ある程度その書き手との距離が縮まったと感じたり繋がりを感じたりします。
でもそれって勝手に読み手が便利なようにカテゴリー分けしたいだけです。
書き手にワンクッションの距離があるように、読み手も一定の客観性は持ち合わせていると思います。
記事によって面白いと感じるのは、ある一定の基準を設けて
「おぉ、今日はエキサイティングしているなぁ。」とか
「あれ?こういう面もあるんだ。」という驚きももらえるその為の指標。
慣れていたからこその安心がそこにあり、刺激あるいい意味での裏切りがある場所。
親近感だと思います。


過去記事が書いた本人にとってもう終わった無関係の記事だったとしても、
書き手が今現在存在し、過去記事も生きているブログの中で消去抹殺されずに表示されているのなら、過去記事は息づいて、現在の書き手や記事たちとリンクし成長し続けていると思います。


たくさんの新しい記事の下敷きとなり埋もれていても、過去記事はいつだって今の記事と同じポジションで読まれる可能性があるし、読む人たちは現れると思います。

見えないものを語る難しさ


『自分の記事にリンクを貼る』というと、

  1. 引用元や参考記事元などHTMLファイルにリンクを作る場合
  2. 外部のサーバー(ホームページ)の画像を呼び出して自分のホームページ上で表示させる場合
どちらもいわゆる【直リンク】なんですよね。



実は、「【直リンク】はやっちゃダメ」という記事を見かけて、

「えっ。私、サイトや記事の紹介、引用した記事のURLを貼ってるよ。リンクと【直リンク】って、違うの?同じなの?」

と動揺したところから出発しました。



1.の場合は、ハイパーリンク<A>〜</A>のタグを使ってリンクを作ります。

しかし、2.の場合というのは、

<BODY>のタグの中で背景画像を呼び出したり、<IMG>のタグを使って画像を呼び出すことです。

どうやら巷で【直リンク】がサーバーの負荷を高めるので良くないというのは

この<BODY>のタグの中で背景画像を呼び出したり、<IMG>タグを使って画像を呼び出すことが画像の【直リンク】の問題らしいのです。



外部サーバーにあるGIF、JPG、PNGなどの画像を<IMG>のタグによって指定されるものは、

「直リンクをお断りします」と記されている場合、【直リンク】をしてはいけません。
なぜなら、

【直リンク】したサイトが起動するたびに、被リンク元のサーバーがリンクされた情報を転送する為に作業を強いられるからです。

これはサーバーの持ち主や、素材提供者にとっては想定外の状況です。

聞くところによると、想定しない直リンクによるデータ転送量は【直リンク】がない場合の1桁は軽く上がってしまうとか。



サーバーが予定の転送量より多い(負荷がかかる)状態になると、物理的にサーバーに無理がかかり、寿命も短くなります。

メンテナンスも追いつかなくなるでしょう。

【直リンク】を前提に提供するサービスなら、それに伴う負荷やメンテンス、コストの兼ね合いも見込んでいるでしょうから問題ないのでしょう。

しかし、「【直リンク】してください」と言われない限りは、画像の【直リンク】は迷惑な行為と受け止めてよさそうに思います。



ちなみに、外部サーバーにあるHTMLファイルを<A>〜</A>タグでリンク貼ることは、

被リンクサーバーには大きく負担をかけることは少ないらしいです。

ただ、無断リンクの問題や晒しの問題などさまざまな感情に関わってくるようなので、
やはり取り扱いには十分注意して貼りたいと思います。







そもそもサーバーに負荷って何でしょう。
  1. サーバーに一度にどれくらい入れるのかの太さの問題
  2. サーバーのハードディスクの容量の問題
  3. サーバーのハードディスクの数の問題
  4. サーバーとコンテンツのやり取りをするシステムの問題
1.から3.については太ければ、大きければ、数を増やせばという物理的な問題をクリアすれば解決の糸口は見えそうです。

しかし、物理的な問題と言うのはとかくコストの問題と比例します。

物を増やすのにはお金がかかるし、増えた物を置く場所にもお金がかかります。

また物が増えれば、メンテナンスや管理にも人が必要で、そこにもお金が必要です。
サービスを受ける側にしてみればきちんと整備してもらいたいところだろうと思いますが、サービスする側にどれだけ費用が注ぎ込めるのかは、ユーザーには決められません。



4.のシステムの問題も同様で、システムの改善にも、
  • ハイスペックの機械などの導入による物理的な改善
  • ソフト的なシステムの改善、メンテナンス
が考えられます。

そしてその導入には、やはりコストの問題が関わってきます。

ユーザーとしては早急に取り掛かって欲しい案件ですが、サービス提供側の思惑がどうなのであるかはつかめません。

コストの面からでも実際のサーバー状態というのは何にもつかめないのですが、
サーバーの数、大きさ、システムの内容など何一つユーザーにはわからないんですよね

(わかっちゃうのもどうかと思いますが)。







Yahoo!ブログの画像の取り扱いについて、私見*1



画像の直リンクをしてよいといわれていない限り、

ユーザーは、画像を自分のところからアップロードするという習慣を持つことが大事なのではないのかなと思います。

画像の投稿は、自分のブログからアップロードをするのが基本だというところをまず押さえる事が大事ではないかと思うからです。

Yahoo!ブログ - 使い方ガイド - 記事を投稿してみよう! - 画像を添付 でも
パソコンのローカルファイルをアップロードする方法しか掲載していないので、

こちらの方法が基本のように思えます。

また掲載できる画像の形式、1つのファイルにつきの上限、さらに1つの記事について掲載できる画像の容量もきちんと制限されます。
またYahoo! ヘルプ - Yahoo!ブログにおいて画像のURLを「[[img(」と「)]]」で囲むと記されてはいますが、

『非公開記事などでアップロードをした画像アドレスやユーザー間の直リンクアドレスを入れてください』と書いてあるところを見つけることができませんでした。

明確に記されていない以上、人によってさまざまな受け取り方ができるわけですが、
個人の勝手な解釈はあくまでも個人の解釈の域を出ることはないでしょう。



では画像のURLを「[[img(」と「)]]」で囲む機能はどうやって使うのかということになりますが、

どうしても画像のURLを「[[img(」と「)]]」で囲む機能を使いたい場合、

もう少し具体的な使い方と説明をカスタマーサービスに求めるか、

わからないのだから使わない、という選択肢しかないのではないのでしょうか?

つまり少なくとも現状の私の知識では、「[[img(」と「)]]」の機能を使う事はできません。

いくら簡単に使えるボタンが付いているからといって、Yahoo!ブログが推奨する正しい使い方がわからないのに、

勝手な自己解釈で使ってしまうわけにはいきませんよね。



Yahoo!ブログでデフォルトで直リンクの機能を使っているもの(名前アイコンやアバター)はOKなのに、ユーザー間では直リンはだめなのか?

あらかじめシステムに組み込まれて提供されている機能なら、開発者側も対応がしやすいと思いますが、

ユーザーが独断で「システムだってやってるんんだから、いいじゃない」という理屈が通るかどうか。
全システム、全サーバー構成その他諸々を知り尽くした上で行使するのなら、まだ説得力も出るかもしれませんけれど。



使ってもいいともダメとも書いていない機能だと、どうやら使ってしまいがちなYahoo!ブログ。

それだけデフォルトでできる機能が少ないことの表れでもあるのでしょう。

けれどベータ版で、現在のシステムのできをお試しして欲しいんですよね、きっと。


システムの穴を見つけて、ラッキーとばかりに音楽ファイルやフラッシュファイルを設置するテストまで望まれているのように思えないんですけどね。

お菓子や、化粧品のテスターをして会社に感想文を送るのに、

本来の機能だけを純粋に試した感想ではなく、色々な付加(負荷でもあるけど)実験や、アレンジパターンばかりだとしたら、開発者も困っちゃうだろうなぁと感じます。

なぜなら、ダメ部分の穴を更に拡げて叩き壊されたあげくに、とりあえず修復することに労力を割かれてるじゃないですか。

「それはそうと、基本はどうでした?」って聞きたくなると思うんですよ。

本来の実験のお役には立てているんでしょうか?

今の状況だと、『開発側の役に立っているかどうかなんて知りませーん。関係ありませーん』状態に見えるんですよ。







ただ、『〜は考えないことにする』や『〜であることを前提にしています』の元で進められるサーバーの負荷の問題や直リンクの議論や提案には、疑問視でいっぱいです。

学生の頃の物理や化学の問題じゃあるまいし、『考えないもの』や『無いもの』として繰り広げられる考察は、現実とは別次元の机上の空論だと考えるからです。



どんなに正論であったとしても、現実の空気や摩擦に触れたら通用しない理論など持ち出したら、意味がないとは思いませんか?

Yahoo!ブログというくくりでみたら1つのサーバと言える』と思うのは自由ですが、

身勝手な思い込みや想定を前提として話を進められるほど、Yahoo!ブログ全のシステム構成に詳しい方のお話を伺いたいです。

*1:「私の私見」と書いてしまっていたのですが恥ずかしいので直しました。06.04.23

書き手と共に息づく記事


春ですね。
桜の季節には、出会いも別れもつき物です。
ブログの棲家も閉じてしまう方もあれば、お引越しをする方もいらっしゃいます。


私もブログの棲家をお引越しによって変わったりしたんですが、その時、前の場所の記事をどうしようか少し迷ったんです。
もともとブログの動機付けというかきっかけである『Macとの同居生活』は、問答無用でお引越し先にも持って行きました。
こちから勝手にトラックバックさせて頂いた方々には、失礼ながら記事の移動報告もさせていただきながら。
例えばYahoo!ブログにいた時のYahoo!ブログ独特な記事、「転載問題」や意見交換の記事などは、Yahoo!ブログに置いていくのが妥当であろうと考えました。
初めてYahoo!を知らない方が読んでも、さっぱり訳がわかりませんから。


でも、ブログをやっていた時の想いや考えの記事なんてのもあるんです。
これがクセモノです。
自分で自分の記事を可愛がりすぎると、辺りの波がサッと引くのを肌で感じる「ナルシスト」色満載なわけです。
だからといって、自分の生み出した言葉や考えを必要以上に卑下したり、無下にするのも本意じゃない。
これでも一生懸命、いろんなものを奮わせて、振るわせて書いているんです。


それでも私の記事は、誰かの心を鷲づかみにするほど熱烈歓迎されたり、たくさんの愛読者を抱えていたわけではありません。
下書きもちゃんととってあります。見ようと思えばいつでも見られる環境なんです。
ですから、私の気持ちが納得行くまでゆっくりあれこれ悩むとします。


ブログのお引越しは、私だけに限ったことではありません。
私の大切なブロガーさんや、こっそり愛読していた方々でもあることです。
大体の方は元のブログを閉じてはしまわず、リンク切れの無いように配慮なさる気配りの行き届いた方ばかりです。
『オーナーは不在ですが、いつでもご覧下さい』と開放して下さっている方ばかりです。


行き詰った時、初心に帰りたい時、そのブログのその場所で、あの記事に向き合えば心安らぐ、奮起する。
そうやって励まされたり、叱られたり。
愛読者の気持ちを汲んでくださってありがたいなぁと思います。


私はブックマークもRSSリーダーも利用しています。
反面、お気に入りだけれでも、いや、お気に入りだからこそブックマークもRSSリーダーにも登録しないで赴くブログや記事もあります。
そこに向かう、アドレスを打つプロセスから大事な儀式のブログや記事*1


そのブログの記事には、オーナーの雰囲気というか息がかかっているんですよ。
オーナーと共に脈打ち、呼吸している。
だからこそ、ブックーマークや転載のように本体から切り離してはいけないもの。
オーナー不在のブログや記事たちは、長期滞在の為に家具や部屋のあちらこちらに大きな白いシーツをかけられたお留守番の空き家状態。
かつての残り香や雰囲気のカケラが返って物悲しく痛々しいのです。
人の住まない家がドンドン傷んでいくように、ブログも記事もオーナーと離れて精彩や勢いが薄らいでいくようです。
記事が活字の羅列になって行くようで寂しいのです。


できることなら、新しいブログに連れて行ってもらえたらなぁと思います。
『旧ブログの記事』という書庫でそのまま保存もいいし、今現在の状態にあわせてリニューアルバージョンでもいい。
それもオーナーと共に進化、成長する記事だと思います。
まさに息づいている記事ですね。


もしこの記事をご覧になってくださる方がいらっしゃるとして、なるほどを感じるところがありましたら、
ぜひともかつて旧ブログにおいてきた記事たちを、新しいブログに引き取ってはいただけませんか。
ブログの記事には、折に触れ交わりたい、浸りたい世界を与えてくれるものもあるんです。

*1:決してブックマークや、RSSに登録している記事のほうがやすいとかではなく、私の中で切り分けができているという意味です。もちろんブックマークした記事も大事に思ってます。

デジタルデバイド


デジタルデバイドとは 【digital divide】 ─ 意味・解説 : IT用語辞典 e-Words


パソコンやインターネットなどが使えないと世の中から置いていかれてしまう、いわゆる社会の『負け犬』になってしまいますよ。
ということであろうか。
そしてそのデバイド(格差)を縮めるためにどうするのかというと、
        ・ 100ドルパソコンのようにとりあえず物理的に1人一台を目指して持たせ、インフラを整える。
        ・ パソコンの使い勝手を良くする(誰でも使えるような簡単操作にする)。


上っ面は聞こえがいいけれど、どれも本質的には解決していないように聞こえます。
なぜなら、情報を得られない損害を心配しているというよりは、『だからパソコンを持ちましょう』とセールストークしているようにしか聞こえないから。
本質はさておき格好から……。というのはよくあるパターンだけれども、物を買って、自発的に操作しての煩雑さも併せて、怪しげに感じてしまう人も多いように思います。


パソコンやインターネットを使う人と使わない人、また使いこなす人とでき合いまま使う人が存在するのは、
例えばWindowsの操作性が難しいとか、デジタル偏見というよりは、
【パソコンやインターネットを使用しなくても、まだなんとか生活ができるから】
【今までのライフスタイルを遂行するのに、大きな支障を感じないから】
ではないのでしょうか。


テレビや銀行のATMは、使えないと今日の生活に困るという身に迫ったものがあります。
またそういった生活に必要なデジタルの場合、より多くの人が使いやすいように拡張性やアプローチの方法を1つにして迷いにくいようにしています。
Windowsがどんなに使いやすくても、テキストのカット&コピーの方法に、ツールバーや標準のボタン、右クリックによるショートカット、キー操作によるショートカットなど選択肢が多すぎます。
汎用性の使いよさはあるけれど、初心者にはこれだけでも敷居が高いのです。


以前、こんな話を聞いたことがあります。
海外の取引先にシステムを導入した際です。
導入作業が終わり、お客さんにオペレーション方法を説明しました。
「コンピュータを入れるといったから、全てコンピュータがやってくれると思ったのに、
これじゃぁ、今までと何にもかわらない。コンピュータを入れた意味がない。逆に仕事が増えた。いらないから持って帰ってくれ。」
今までの方法で十分だと、お客さんはたいそうご立腹だったそうです。
なだめてすかして何とか事を収めてきたようですが、システムを導入しに行った人にとっては、とてもビックリしたしセンセーショナルな出来事だったようです。


紙と鉛筆の作業であることは変わりないが、転記ミスや計算ミスの削減、情報の一元化など今までの人的な穴や人数に頼った作業を少人数でこなせるのが、電子化。
全ての仕事を考えてやってくれる万能なロボットじゃない。
しかし、パソコンやインターネットになかなか踏み込めない人たちの中には、そのような理想と恐さを持ち合わせて遠ざかってしまう人も多いのではと思います。
使えなくても命はとられないし、今までの方法で新聞やテレビのメディアでまだまだ十分と感じている人も多いはず。
その意識こそが格差を生むのだとしても、周りを見渡せば紙媒体でコピー、ファックス、電話も現役。どちらかというと主流。
危機感も疎外感もないはずです。パソコンに少し精通した人がそばに居れば十分だし、便利。くらいにしか思えないでしょう。
デジタルデバイドと対峙するのは、本当に差し迫った時がきたその時に考えるといった他人事の姿勢でいる人は多いでしょう。


デジタルデバイドという言葉が、単なるパソコンを世に広めたい一部の人たちのエゴに基づいた商業意識の現われでないことを祈りたいです。
デジタルを媒介にして得られる情報は確かに膨大だけれど、だからデジタルだけ。というならそれは疑問視です。
また、デジタルから得られた膨大な情報を分類、整理して使いこなすのは、人間自身。
ふるいがデジタルだけだと、意外と目が粗くてすっぽり大事な情報を逃してしまうこともあるかもしれません。
道具や手段の選択肢の1つとしてパソコンやインターネットもある。でもパソコンやインターネットが全てじゃない。
選択肢のカードは多いに越したことがないから、いつでもホットスタンバイでは置きたいですが、過剰な期待や入れ込みには注意したいです。
そうそう、
職場で英語がムチャクチャ達者な同期のAちゃんは、『日本人が外国語を話せることは、特技じゃないのよ。ただのかくし芸』が口癖です。日本語すらもおぼつかない私には、英語がペラペラなだけでもすごいことなんだけれど、彼女にとっては英語が話せることは1手段であることにしか過ぎないらしいです。
ちなみに、「warning」を「ワーニング」と発音するととても耳障りなんだそうで、「ウォーニング」といつも直されます。


《余談》
パソコンではありませんが、最近の車。
電子制御は常識。
日本のクルマメーカーでは、パーツ会社まで全面に押し出してユーザーにアナウンスすることはありませんが、つるしのまま使わず内部の仕様はメーカが決めても、構造に関してはパーツ会社まかせ。
構造がどうなっているかまでは問わないのが、信用取引でお約束とか。
ジレンマはあってもじっと我慢なんだそうです。
いざという時や整備の関係上、できるだけ手の届く範囲の構造であって欲しいが私の希望です。
だからというわけではありませんが、私の愛車も私よりお姉さんのアナログな車。ギアのかみ合い命です。

遠くで感じて、長く細く愛用して


近頃ブームとなって、多くの人が参加しているブログ。


デジタルに不慣れな女性、そして特に主婦層が大量に流れ込んだことは、
デジタルに不慣れではない層から、好奇の目を向けられることも多い。
少し蔑まされた冷たい視線は、ドライビングテクニックの評価に似ている。


しかし、その恐いもの知らずで無理そうなことでもどんどん進めてしまうような
「自分たちのテリトリーの考えやしきたりが法律で全てだ」
と根拠も無く声を張り上げてしまう彼女たちにも、悩みや悲しみは尽きないようだ。


主婦である、子供を持つ母である。
こうした肩書きやカテゴリーでうまく輪の中に納まっているように見える。
とは言うものの、やはり2人以上人が集まるとそこには社会ができる。
その中で決められた秩序や思想から逸脱することは、何にも変えがたいほど許されないし、プレッシャーがある。たとえどんなに意に染まないことだとしても。


家庭の中にいて、その暮らし方や子育てを存分にエンジョイしながら、さらに余暇としてサラリとネットと触れ合えるうちはいい。
しかし、「友達のいない寂しさ」や「社会との断絶感」をネットで解消しようと考えてBlogなどのコミュニティーに関わると難しいと思う。
人付き合いの休憩時間が長いのに、うまく立ち回るどころか普通に足並みそろえるのも
気苦労が絶えないのではないか。
公園デビューにもいろいろ掟や禁忌が存在するようで、少なからず悩ましい問題だと聞くが、ネットのお付き合いにはまだボスとか社会が確立していない分、さらにややこしいように思う。長くいる人や声の大きい人に従う雰囲気がありそうだ。


また、誰かに何かをして欲しいと願うのと同じくらい、自分は人に対して需要に応えられるほどの供給ができるだろうか。
とにかく癒して欲しい。
閉塞感から解き放たれたいとガツガツ、ギラギラした精神状態では、他人を思いやるほどの余裕はないのではないか。
共有、共感を求めているとすれば、求めた自分が本当に手を携えて前向きになれる状態かを考えれば、察しはつくはずである。
依存でブル下がられても持ちこたえることを、お互いに求め合っているのだから。
良い悪いは抜きにして、単純に無理だろうなぁと思う。


コンサルタントをしたくてウズウズしている人がクライアントを求めてネットに進出する数よりは、ケアされたい女性の方がずっと多いと思うのだ。
そのような負の要素がたっぷりの空気の中では、不満を共有するどころか、不幸の多い競争になることの方が成り行きとしては自然だ。
同意できない愚痴に賛同したふりをしたり、聞き役ばかりという場面も多くなり、かえって自分自身を追い詰めたり、苦しめてしまう状況に陥ることもあるのだろう。


もちろん、家の中で1人もしくは子供とだけしか顔を合わせない日々が続くと
変化のない毎日を疎ましく、言い知れない孤独に苛まれることもあるだろう。
世界から切り離されて、見知らぬ小島に追放されたと感じるかもしれない。


一方で結婚をしていなかったり、育児に縁のない身近な友人が羨ましくも妬ましく感じることもあるだろう。
キラキラ輝いて見えるのだろうか。
結論を言ってしまえば、
少なくとも自分だけが世の中で一番不幸だと判断するのは、思い違いか幻想である。
ほとんどが隣の芝生である。
みんな自分以外はどこかしら恵まれているように感じるものだ。


世界と断絶しているという意味では、会社勤めもかなり惨めなものだ。
朝空が白々している頃、モクモクと地面を見つめながら駅に急ぎ、
地下鉄の建物、電車の箱にぎゅーぎゅー詰め。
会社で仕事をしているとはいっても、『経費削減、合言葉は前倒し』の号令の元
どういう人月計算をして企画を通したんだ?と疑問になるようなデスマーチのオンパレード。
気が付けば、食事もお手洗いも人と会話することもすっかり忘れて、日付が変わり
仮眠を取りに家路に着く毎日。
会社の建物と同じ境遇の外界との繋がりを絶たれた人々が、表情も無く意思でもなく
無意識と反射のなせる技で進捗と計画が押し流されていく。


社会に組み込まれているのが、幸せかといえばあんまり幸せとはいかない。
闇雲に時間に追いかけられてへとへとギリギリ踏ん張っている人も多いと思う。
仕事の評価として与えられる賃金が満足のいくものかといえば、それも納得がいかない。


ネットに現実では得られない何かを求めているという意味では、誰もかれも似通っていると思う。
ただ、いくらリアルからの逃避を求めるからといって
あまりにも現実からかけ離れたものを求めすぎては、逆に落胆の度合いは大きそうだ。
ネットで知り合ったり出逢ったりする人もまた、現実では普通に人である。


せっかく現実のしがらみ(肉体とか肩書きとか)から開放されて、
いちパソコンの向こう側の人になるのだから、弾けてもいい。
共感や強調という縛りをを楽しみながら、自分勝手をイロやアクとして認知させていく喜びも享受していい。
だけれど、自分のポジションは見失ってはいけないと思う。
守るものは守って欲しい。
現実を失わせたり、目隠しするようなどっぷりネットに浸かるでもない、
ネットで自分の才能や感性を磨かせるチャンスを失わない。
人とそこそこ繋がっている、やんわりした居心地のいい、自分の居場所を見つけたいものだ。


欲張ってはいけない。
パソコンの前にドッカと張り付いていても、知識は溜まっても使う場所がない。
得たら行使する。食べたら出す。
自分自身の中に巣食う片付けられないを、すっきり整頓するためのアシスト的な位置づけが寛容だと思う。


ちょっぴりうたた寝ができる余白を作ろう。
そう言い聞かせながら、久々に記事を更新。

Yesマンは悪魔の使い


ブログで記事を書いていれば、その記事をきっかけに肯定記事や否定記事が書かれる場合もあります。


たいてい、肯定記事で問題になることは少ないと思うのですが、
否定記事、きっかけの記事とは異なる意見、違う切り口で展開される記事もでてきます。
1つの答えしかない意見なんてつまらない、前向きではないと分かっていても
やはり自分の意見と違う意見があからさまに突きつけられるといい気持ちはしません。
本能的に不快感が沸いてくるものです。発作的に拒否反応も起きるでしょう。


そんなことから、きっかけとなった記事の作者は悪口と捉える場合があります。
『あなたはAを赤いといっているが、私はAは黄色いと思う』などと記述するだけで荒らし認定を受けることもあります。
自分の意見が正であると根拠のない自信満々の場合は、なおさらです。


本来広く意見が集まる良い機会なのに、小さな自尊心のためにいらぬ争いを生じさせてしまうのは残念です。


そこで次に問題になるのが、
    否定記事、コメント、ブクマはしない または 否定の意見もオープンにしよう 


本能のままぶつける怨恨や根拠のない悪口なら、それを見つめる沈黙のオーディエンスが
沈黙なりの鉄槌や反応が出てくるのではないでしょうか?
また、肯定コメントへのお返しよりも、批判や反対意見を述べた相手に対してする態度こそ
自分の記事に対する本来の姿勢や想いを問われているように思うのです。
真摯に受け止めるのか、さらに調べて巻き返すのか。
受身に立つばかりではなく、受けてから攻める方法もあると思います。
憎い反対意見ならそれを存分に踏み台にし、かじり倒してから前に進む策もあるのではないでしょうか。


なので私は、
オープンで否定するのは悪くて、わからないところならOKでは、表面的な回避であって根本的な解決とは思えません。
自分以外はみんな違う意見を持っていて、それを前面に押し出されてどう思うかと問い詰められるのは、悪意ではなく、議論なのだと思いたいです。
もしくは、自分の発した考えの真剣度合いを試されているのだと受け止めたいです。
批判コメントは直接飛んでくると確かに傷は負うけれども、その分得られるものもきっとあるので
【否定は禁止】、【批判は荒らし】なんて言わないで欲しいなと思います。


もう1つ、
反対意見も大切なのは頭ではわかっていても、やはり面と向かって批判否定は辛すぎるからという理由で、
   否定の記事やコメント、ブクマはするなといわないから
   せめて否定は書いた本人に見えないところでして欲しい
という意見もあります。


傷は誰だって負いたく無いに決まってますから、心情的にはとてもわかります。
しかし、見ざる聞かざるで永遠に押し通せるものでしょうか?
なぜならネットは繋がっているんですよね。
批判が出た時リアルタイムでは回避できても、巡り巡って結局見るはめになる気がします。
実は自分以外みんながその批判を知っていて、自分だけ知らなかったなんて虚しい事態を引き起こすことにはならないでしょうか?
もっと早く直接言ってもらえれば対処できる事なのに、隠れて否定してもらったおかげで収集がつかなくなることはないのでしょうか?
いい噂は自分に届き難いけれど、悪い噂は伝搬が速いものです。


小さな親切でこっそり「どこどこのブログで批判されているらしいよ」なんて教える人もでてくるかもしれません。
そうなると逆にいつどこで何を書かれてWebにのせられているか不安になり、不快を通り越して恐ろしいと思うんです。
疑いたくなくても疑いたくなる、人間不信に陥りそうです。


否定と肯定は半分ずつ。
肯定がたくさんあれば、否定も同じ数だけあると思っていいのではないのでしょうか?
肯定が少なければ否定も少ない、つまり誰からも見向きもされない記事です。
良すぎない悪すぎない、フラットです。


リアクションを求めるということは、自分以外のあらゆる反応を受け入れるということ。
都合のいい心地よいものだけをふるい分けて得ることはむずかしいでしょう。
肯定の存在を引き立たせるのもまた、否定の大きさであったりするのですから。


肯定の反応しか受け付けないなんて歪んだ評価を求めれば、
やはり歪んだ反響しか戻ってこないと思います。

パクリ騒動


ブログを読む機会が増えると、何度か遭遇するパクリ騒動。


きちんと手順を踏んで引用という手法を使えば、
自分以外の人の考えた文章や思いを自分のブログに掲載ができるのにと思います。
卒論や研究発表の作成の時、『論の中身は期待しないが、引用や参考文献の表記だけはきちんとしないと容赦しない』
ときつく言われませんでしたか?


たいていパクリ記事といわれるものは、
    ・ 引用元が記載していない不手際
    ・ 誰の目にもパクリでも、自分のオリジナルと押し通してしまう
    ・ パクって何が悪いと開き直る
のパターンでしょうか。


平気で人の考えや思いをパクってわがもの顔でいられる神経の持ち主に対して
それを見て不信を抱いたり、注意を促しても理解してもらえないかもしれません。
自分のものと人のものの見境が付かない人に道理を言って聞いてもらえるかもわかりません。
そのうち、【自分以外の人の文章をブログに記載する時は、正しく引用しましょう♪】
とさらに誰かの記事をパクって述べているかもしれません。
(コメントや反論、お詫び・反省記事も誰かのパクリだったら、筋金入りで恐いです)


しかし今回は、私がパクられた当事者ではないので、これ以上をここを言及すると、
【パクられないひがみ】とか理解不能な報復を受けそうなので、
パクリ魔へ対する私の意見は、私がパクられ当事者になった時にたっぷり言及させていただきます。


ところで、パクリ魔が時としてそこそこの固定客を持つ(支持されている)ブログであったりする場合があります。
タチが悪さは倍増します。
その固定客は支持しているブログがパクったと他から指摘されると過敏に反応してしまうからです。
      『パクった、パクらないって暇人だ』
      『他人のブログを批判している暇があったら、自分のブログを確認しろ』


いや、そうやって反応しているあなた(支持者)も思いっきり反応してますよ。
      何か都合が悪いんですか?
      本気でパクリは悪くないって思っているんですか?
と聞きたくなるほど不思議な現象です。


パクリを指摘した人を「暇人だ」、「心が狭い」とか言いがかりをつけると、
支持しているパクリ魔が更に不利になるって事に気がつかないのでしょうか。
どうみても、パクリ魔もっと泥沼に引きずりこむための策略にしかみえません。
支離滅裂な得体の知れない援護射撃は、守りたい人が一番被害を被ってしまいます。
どうして支持している人が、「パクったっていいじゃん」「これごときの事で・・・・・・」なんて助長することをするんでしょう。


もし、パクった本人が謝罪したくても、できなくなるではありませんか。
いたずらに騒ぎを大きくして何のメリットがあるというのでしょう。
世界を敵に回しても、支持者の気持ちは変らないとゆがんだ信頼を表明したいのでしょうか。
判官贔屓にしても、この伝説は未来永劫 【正の伝説】 にはならないと思いますよ。


大事に思っている人を非難されたから、ただ単純に気分が悪いのかもしれません。
だとしたら、支持している身近な人たちが誰よりも先に指摘してあげなければいけませんよね。
少なくとも
      『どうして非難されているのか、指摘されている根拠は何なのか、
      いろいろな角度から資料や意見を集めてあげられないものですか。
無為無策で抵抗し、共に散ることが美学だとかじゃありませんよね。


もし過ちを認め、方針を改めるとなると、それなりに気持ちの整理や苦しいこともあるかもしれません。
その時こそ、一緒に立ち直るお手伝いをするという役割を支持者の方が請け負えばいいのではないのでしょうか。
妄信ではなく、真のお仲間を構築してください。


あと、自分のあげた記事に対して批判が付くからという理由だけでファン限定にするのはおやめ下さい。
    それでもコメント一覧から記事の内容はつかめますし、
    仲間内だけで悪口や小さく固まって抵抗するのはやはり自分たちを不利にするだけで、
    その場は凌げた風に思えても何も有利に動くことはありません。
    パクリの反省ができない限りは、何度でもパクリの記事は発生するのでしょう。
    なので、時が過ぎるのを待っていてもまたすぐやってきます。
    逃げるのではなく、事実に向き合ってください。
記事を隠す行為こそ、自分たちが都合が悪い行為をしている表現そのものです。


こうした騒動がある時、やはり付きまとうのが、〜ユーザーだから。
Yahoo!ユーザーはまったく〜」みたいなもの。
私は、【どこでブログをしていても、書いている人のキャラクターで勝負すれば、ブログの会社は関係ない】
と思ってやっています。
ヨソサマにおもしろおかしく見られても、私が私を真っ直ぐ見られなくなるようなことはしたくない。
大勢の仲間の中の孤独はイラナイ。


しかし、例えばYahoo!なら、やっぱり騒動やネタの多いブログであると言わざるを得ませんね。
その原因がシステムの問題なのか、そこに集まるユーザーによるものかはわからないけれど。
      人と人との距離が異常に近づいてしまう。
      でも指摘してしまうと関係が崩れてしまうとどこかで自覚している。
      だからこそ、お互いにナアナアな付き合いになる。
刺激しあったり、悪友な親友、内輪での厳しさは生まれにくい状態にしています。
都合の悪いところは目をつぶって、いいところだけ評価する。
このケイハクな関係が、PCの電源を切れば消えてしまうネット恥はかきすてに繋がるのかもしれません。


そんな幻にしがみついているからYahoo!ユーザーは・・・・・・っていわれてしまうのか。
私も疎遠だけどまだやめていないYahoo!ブログ。
私もユーザーベータ版だからとか言い訳はしないけれど、
試しではじめたものの、「フィットしないから止め」だと私、いい加減なヒトかな?優柔不断?女々しい?
サーバーのゴミ作り屋さんみたいで申し訳ないけれど、悩めます。


ただ、パクリはそんなあいまいな認識じゃダメと、はっきり言えます。
これはブログ間やユーザーの意識の考えの違いじゃない。
ブログだからの特有のものでもない。パクリはどんな時にでもダメ。
どんなに他のオリジナルが良くても、パクリが混在していたらもうその時点でおしまい。
パクリたくなるほどいい文章だったり考えだったら、その出典元を明確にすればいいんですよ。
オリジナルを装ったパクリじゃなくて引用ですよ。
他者の文章や考え、思いを自分の考えの参考や裏づけなどに用いる時は、思いっきり神経を使いたいです。