2005年12月30日にいただいた記事への私の想いを。


自分が借りているサービスにおける意見交換の場なら
当然私も自分の意見を述べたいと思っていた。
面と向かう会議なら、参加して手を上げて自分の意見を述べるだろう。
それがブログなら記事を書くこと。
だから、私にとっての思うこと、私が正しいと感じて実行していきたいことを記事にした。


ちょうど議題が次から次へと出てきている頃だった。
トラックバックによる意見交換。
コメントによる様々な価値観。
時間差の少ない中で多くの意見、様々な価値に触れられる手応えが、
私にとって新鮮で刺激的だった。


私は 「議論は意見交換の延長線上」 だと考えている。
正と悪でばっさり切り分けてしまうのは難しい。
どちらがどうなのではなく、二通りにしか分類でき無いのが嫌なのだ。
十人十色なんてよく使われるくせに、こういう時だけ体制側と反体制側みたいな枠組みが嫌いだ。
人の気持ちをある特定の基準で括ってしまうのがもったいないと思う。
ましてや、声の大きい者や力のある者による偏った仕分けであるならなおさらだ。


しかし、どんどん続く議論には強者と弱者ができた。
勝ち組、負け組ともいうのだろうか。
当初私の意見は、たまたまその強者・勝ち組の側と方向性を共にした。
狙ったわけではない。
たまたま思うところや考える方向が、その議論テーマにおいては同意できるものだった。


私の中ではだからといって、いつもどんなテーマでもその人たちと同じとは限らない。
足並みを揃えたり、安っぽい仲間意識で自分の考えを捻じ曲げたり押さえることはできない。


私は人とのコミニュケーションがつくづく下手だ。
ブロガーとして尊敬したり、好感あっても、テーマがあって意見を述べる時は、誰かれお構いなしだ。
「こんなこと書いて、これから気まずくなったらどうしよう」 なんて考えない。
疑問があればそのまま記事にして問いかけるだろうし、どーんと体当たりあるのみだ。
空気なんてまるで読まない。怖い物知らずでもある。


もちろん、ある程度信頼した相手としか議論は交わさない。
私を誰かの意見に屈服させるのが目的だったり、跪かせたいだけのためにやってくる相手ならば、
喜んですぐに頭も下げるし、詫びもする。
社交辞令でなんとも思っていない相手に対して、土下座するなんてたやすいことだ。
そんなことに私のプライドは存在しない。


自分に無い視野、感覚があるから言葉を交える。
誠意をもって気持ちを伝える。
私が伝えるエネルギ以上に相手の意見や思いを自分の懐へ入れる。
それが私の考える議論だった。


話は横道にそれたが。
一回できてしまった強者・勝ち組。弱者・負け組。
この溝は広がっていった。
いや強者・勝ち組。弱者・負け組の方向や距離が悪戯に一人歩きし始めた。
人が大きな力に群れるとは恐ろしいものだ。
幻想の勝ち馬にでも乗った気になった者は、勘違いなまま次第におかしな振る舞いや思考を披露するようになる。
【無知はバカなのか。罪なのか。バカだからブログで卑屈な思いをするのか。】
そんな意見を目にするようになった。


当初、 『それなりの耐性がないなら、ネットから離れればいい』 私はそう思っていた。
知らない場だからこそ細心の注意をし、様々な情報を取り入れ、常に学ぶ姿勢が無いと危険だと思っていた。
誰かにお手軽に聞けばいいやとか、何かあってから誰かに……。という姿勢はいかがなものかと思っていた。
自分の身を自分で守らず、被害を受けたら誰かのせいにするなんて、恥ずかしいではないかと感じていたから。


しかし。
【わからないのがそんなに罪なのか。知らなければネットはしちゃいけないのか。】
と半ばやけくそになって抗議をしているブロガーさんに出逢った。
理論武装をせず、素手で叫ぶ姿に目が止まった。無謀だと思いつつも、気になった。
「規約も読まずに、サービスがなんとかしてくれないのが悪いんじゃないのかなどと勝手なことを言っている」
強者・勝ち組から指摘されたことに、とても深く心を傷つけての抗議だった。


私はそのブロガーさんが気になって、その方のブログの記事を幾つか拝見した。
議論の内容はともあれ、二手に分かれて闘っているその様子を切々と嘆いていた。
言葉は暴力であると。
一方のご贔屓の組を助けたいけれど、自分には論客達を前に太刀打ちできるだけの強力な言葉が無いと。


当時、その議論は確かに少人数のありようを責めるものだったかもしれない。
責めるほうが大人数だったとは思わないが。
そして、明らかに責めている私も含め議論の内容は間違っていなかったと今でも思う。


しかし、その影で、例えその人の手落ちによることが発端だったとしても、
その手落ちの人のために悲しむ人がいることを知った。
悪い奴が責められて当然。それでも、その悪い奴のために心を痛めている人がいるのだ。
信者だから。そういう見方もある。
しかし、それでは正論を振りかざす側には手落ちがなかったのか。


正しいことさえ言っていれば問題ないと思っていた私の立ち位置が
大きく揺らいだのは、この時だった。
偏ることは良くないと、冷静な判断を歪めるだけだと心していたのに、
いつのまにか正論の美酒に酔いしれてしまっていた。
自分の意見に、あんなに嫌がっていた所属に私は自惚れているのではないのか。
いい気になって、ふんぞり返ってはいないのか。


それから私は、その【わからないのがそんなに罪なのか。知らなければネットはしちゃいけないのか。】
と悲しむブロガーさんと何回かやり取りをさせていただいた。
自分で知ろうとすることは難しいことなのか。
思ったことを記事にして、主張することは難しいことなのか。
尋ねてみた。


答えは、
ブログというツールに対する、使い方の違いなんだと思った。
道具は使う人の手によって、同じものでも姿を変える。
良くも悪くもなるといえば、手垢の付いた嫌味な言い方であるが、
その結果の良し悪しの手応え、感想もまた人それぞれなのだ。
誰かが悪くて、誰かが偉いんじゃない。


議論だ意見交換だ喚起扇動だなどと面白くも無い堅苦しい場だけに、使わなくてもいいんだなと思った。
脇が甘い。それもブログなのかもしれない。
システムのことを考慮すれば……。そんなの一部のシステムに知識がある人の屁理屈なのかもしれない。


ネット、パソコン初心者。
私もネットデビューがブログでビューのようなもので、やっと1年とチョットという期間である。
パソコンの機械的な構造も詳しくないし、そもそもパソコンの存在を知って、触ってからの日も浅い。
到底偉そうなことをいえた義理ではない。
ネットのこと、ブログのこと。パソコンのこと。知らないことだらけだ。
私にとってネットもパソコンも情報を得るツールとして今だに刺激的である。
「ネットで調べて、こんなこともわかっちゃってすごいね」
と素直に思える。


そして、記事で意見を発信することに躊躇するようになった。
もともと私は感情もむきだしの語調強めなところがある。
自己主張なんだから、ある程度自信を持ってきっぱり言わないでどうする。という気持ちもある。


でも私が叫ぶことで、誰かを傷つけるのか。悲しませるのか。
それは間違っていないのかと悩んだ。
そんな主張はいらないとさえ思える。


今でも悩みながら記事を書いている。
書くのが難しい、伝えるのは難しいと思うのは、あなただけじゃない。
語彙や文章のテクニックなんて表面的なことは、たいした問題でもない。
見てくれと舌ざわりのいい表現なんて、ショーケースの向こうにたくさん溢れている。


でも感じる心は大事にしたい。
例え180度相反する場所に立っていても、私はあなたの意見や気持ちに対して
間違っているなどとは思わない。蔑むなんておこがましいこともあり得ない。


だから、どうか自信を持ってこれからも発言して欲しいです。
私にあなたの気持ちや意見を理解する耳と心の幅を与えて欲しいと思います。
私はあなたの記事を拝見して、何度もなるほどと心を動かされたり、
これまで露も知らなかったことを教わりました。
「いいお話だな」 と温かくなったことも何度もあります。




これが私の答えになります。
こうしてみると私ってずいぶん自分勝手に主張していますね。
上から目線で生意気のオンパレード。
私も自分の書いてきたものを時折振り返りながら、恥ずかしさに悶えたり、
反省しながら地中深く穴を掘って私自身を突き落とし、2度と出てこられないように蓋をしてやりたいくらいの思いにかられます。
迷ったり、躓いたり。
こんなもどかしさを繰り返しながら、私もブログというツールを楽しんでいます。


どうか笑いながら、
「ふーん。そんなもんなのね」と感じていただけたら嬉しいです。
こんなに長くお待たせしてしまって、申し訳ありませんでした。


そして。
あなたの強い意見発信に出逢え、突き動かされました。
そこから、私は自分の足元をみるチャンスに恵まれ、考えを深める時間を持つことができました。
この貴重な縁に、心から感謝いたします。
どうもありがとうございました。

予期しない反力


性別に限らず、私にまつわる外的要因のフィルターを通した時点で、
もうあなたには私が見えない。
そこに私はいない。
あなたが勝手に作り出した妄想の登場人物に過ぎない。




私の思考は、私自身の経験や体験などから得た引き出しの中から引っ張り出される。
そのデータ達の切れ端をミックスして再構築したり、
遠心分離機にかけてそぎ落とすことによりできあがる。
同じ事象でも、その時の気候や体調または気分で、果てしない化学変化を起こすこともある。


文字だけの表現だから、誤解や誤読が生じやすいという人がいるかもしれない。
表情が見えれば、相手の気持ちがわかるのか?
声で伝えられれば、正確に理解できるのか?


実際には、書き手の意図した世界を感じることも察することもできない。
なぜなら書いたその人ではないのだから。
読み手の身勝手な思い込みで進められる。
読み手の経験から似ている現象を引っ張り出し、かき集めなんとか当てはめてみる。
それを共感していると浸るのが精一杯ではないのか。


こうして文字で発信した想いを、実物の書き手とシンクロされるのか。
書き手がある程度読み手に想像をしやすいデータを与えたとすれば、距離が縮められるかもしれない。
書き手が望む人物像を、敢えて読み手に刷り込んだらどうだろう。
たとえば生い立ちや住まい、家族編成。
性別や血液型。身長やもろもろの外見を司るリアルなデータ。
自画像イラストや実物像の写真。
これらを公開すれば、読み手に書き手がわかりやすいかもしれない。


しかし外枠が認識できたとして、内面の構造まではどのように伝えるのだろう。
今の気持ちをこと細かく詳細に示しても、
それでも書き手は、自分に都合の悪いことそれが長所であれ短所であれ、無意識に隠してしまうかもしれない。
意思とは逆に自分自身の本質から遠ざかるかもしれない。
心のどこかで、人に見られるからだけではなく、自分自身にさえ本質を見えないフリをするかもしれない。


時間は流れて進んでいるし、細胞も生まれては消えていく。
書き記した文字は、ここで気持ちを時間と気持ちごとこの場に留めて置いてくれるけれど、
文字をこうして綴っているそばからも、気持ちはどんどん進んでいく。
目で見て体で認識したものは、書き留めた瞬間からまた増減し、変化する。


所詮私程度の人格形成で、書き手本人が持つ本質を読み手にリードすることなど難しすぎる。
そのくせふとした単語に、本質の私が現れてしまうことがある。
ここで書いている文字1つ、単語1つ。
数ある中からその文字や単語を選んだ私の心の機微が、こんなにたくさん表れている。
一見でわかる像よりも、ずっと本質に近い私が曝け出されいるように思う。


記事として、架空の世界としての書き手と現実の本人とは別人か。
ブログを通してネットの中のコミュニケーションを選ぶ。
書き手の自分から、読み手の自分へのメッセージの場を求めているだけなのかもしれない。
書き手にとって、答えに決まりがあって唯一無二であったとしても、多様の読み手にとっては十人十色。
縛ることも規制することも難しい。
この場所には、確実な鍵など存在しない。




ブログ上で『意図しないリアクション』にショックを受けたという話を聞いて、ここまで考えを綴ってみた。
私が『意図しないリアクション』を受けたらどうだろうかといろいろ考えてみた。
エッチなコメントとか、馬鹿ばかバカとむやみやたらに連呼されるとか。絶対に踏まれたくない心の地雷を踏まれるとか。
まだ、このような状態の経験がなくて想像にいたらなかった。
ボーっとしているうちにすべてが洗われて、わからなくなっているだけなのかな。


でももし書き手が仮想の人格をネット上で提示しているのであれば、
読み手に対して現実の人格として迫ってこないで欲しい願うのは難しいと思う。
ましてや同じリアクションでも、許される人と許されない人が存在するとなると、なおさら話がこじれてしまう。


仮想の世界で仮想の人格。
仮想の相手が仮想の自分に示した行動に、現実の自分が傷を負うからやめて欲しいと訴える。
その願いは誰に対してなのだろう。
空気の読めない仮想の相手なのか?
仮想と言いつつ現実の自分ですべてを受け止めまくっている自分なのか?
仮想の自分を現実の自分と切り離せないでいるのは、実は自分自身なのではないのか?


ちなみにここに現れる私は、意図して作っていないつもり。
頭に浮かんだことを身づくろいや化粧をなるべくしないで、スッピン仕様。
自己防衛本能は強いほうだけれど、鉄壁な守りができるほどおりこうさんじゃない。
どっちかというとズタズタで、色んな物をダラダラ流しながら肩で息をしている。
ギリギリだよとぼやきながら、目に入ったもの手当たりしだいに突進している。
だけどどんなに色んな物を流しても、この記事は一色には塗りつぶされないないんだよ、きっと。

継続の源


なぜブログを続けるのか。何のためにブログに記事を書いて公開するのか。



何かを始める時、ある一定の目標や目的を始めることは多いです。

理由も対象の下調べも無く闇雲にはじめるのは、危険な場合もあります。

それに、なんといっても効率的ではありません。

下手をすれば同じところをぐるぐる回っているだけで力を消耗し、へとへとになってしまいます。

そのくせ何も得られない疲れ損。

そんなことが無いように、目標や目的を持って、物事を始めることは至極納得のいくことです。



これが仕事であれば、もちろん目標も目的も持って行動をしないと困ります。

見切り発車でなんとなくでは計画も立てられません。

しかしブログは趣味。
少なくとも私はお金をいただいて責任を請け負っているわけではありません。



趣味で個人的な楽しみの一環であるならば、

いつでも物事を始めるきっかけが明確な場合だけとは限りません。

  • ただなんとなく。
  • 流行っているから。
  • 興味本位で覗いてみる。

試してみる感覚で足を踏み入れることもあります。



はじめてみて、だんだん目標や目的さらに意義や定義づけができてくる場合もあります。

ただ単にやめてしまう理由が見つからないから続けていることも。

明確に「何かができるようになりたい」などの目的なしにはじめた場合、また続ける理由も曖昧なままであることが多いと思います。



私のブログは毎日更新でも無く、忘れた頃にちょこっと更新が定番になりつつあります。

つかず離れずほどよい距離感。でもまだやめることはないなぁと感じています。

その理由の一つに、
目標や目的が見えない。わからない。
ブログを書くことによって、達成感や喜びの手応えを味わうことがまだない。
このことが大きいです。

いつか見つけてやりたい。達成感や手応えを感じてやりたいという探究心というか追い求める気持ちの方が強いです。

きっと目標や目的が見つかり、達成感や手応え得られたら、やめてしまうのでしょう。

わからないから、その先に何があるのか知りたいから、続けているんだと思います。



ずっと先、あと何十年も後になって今やっていることを振り返った時、私の行動や思考の一連のプロセスの一環であったと思えたらいいな。

プロセスの途中では何にも意味は無く、意味や意義が見いだせなくても、長い時間でひきで見てみるとちゃんと線路に乗っかっている。そんな感じが理想だし、しいて言えば目標です。



もちろん小さな枝葉や回り道だったとしても、この行動が後に反面教師になったとしても無意味ではないんですよね。

手応えがしっかり感じられない
単調な作業の繰り返し
このようなことが続くと、立ち止まってしまって、

何も得ていない無意味で無駄なことに思えてしまうこともあります。

でも、誰かの言葉や意見に惑わされながら自分の姿を映し出すよりは、長い自分の線路を一心不乱に振り返らずひたすら続けてみるのも悪くないなぁと思ったりもします。


答えが見つからない中で進む道は険しいこともあるけれど、不安や寂しさを抱えながらも何かを求めて進むこともまた楽しみ方もあります。成功ばっかり、近道ばかり。そんな平穏で安心な事柄ばかりではなく、面倒や苦しいといった多様さも私には必要だと感じています。

心を失わない自分語り


『自分語り』という言葉の存在を知りました。

自分自身のことについて(、大抵の場合、誰にも聞かれていないのに、勝手に)語ってしまうこと。

自分語りとは - はてなより引用




この定義だと、ブログで自分の意見や思いを語る場合において、かなりの比率で 『自分語り』 をしてしまいそうです。



物理的に対面する会話の中でなら、短い文章を相手に投げかけて返すというキャッチボールをすることがあります。

しかし、ブログは一方的に一人の書き手が意見や思いを述べ続けます。

記事を書いている段階で、話の腰を折られたり、チャチャは入りません。



また話に数字や具体例を入れるとより話がわかりやすくなりますが、この具体例でもブログなどの場合自分の経験がその役割を多く果たすことが多いと思います。こうしたらああなった。私はこうだった。あの時はそうだったと述べるしかないのです。



自分の経験があって今の想いがあり、意見が述べられる。過去の自分があって今の自分が存在する。だからこそ聞かれもしなくてもブログで過去の自分の経験や自分自身を語る場面は多いと思うのです。



しかし、自分を語るというのは難しいです。

「人の話は聞くけれど、自分の話はしないよね」と私はよく言われます。

学生時代は、自分のプライベートな話をしなくても一日の大半を一緒にすごす友達との生活で、わざわざ自分の話をしなくても共通の話題はたくさんありました。

自分自身の話は、聞いてくれる友達との情報を知っているバランスが悪いです。

どうしても私の方が深く知っています。そういう偏った情報というのは、よほど相手に有益な情報で無い限りつまらないと思われる可能性のほうが大きいのではと思ってしまいます。



だから、私は聞かれもしないのに自分のことを語るのは苦手なのです。聞かれれば隠すようなこともあまり無いので快く答えると思います。積極的に語って喜んでもらえるほど、私自身が面白いのかといわれるととても困ってしまいます。

逆に友達の個人的な相談や話を聞くのは嫌いではありません。自分とは違う経験や言葉の受け取り方、感じ方。そういう考え方もあるのかと教わることの方が多いからです。たいした受け答えはできないけれど、黙って頷くだけでも許してもらえるのならば、聞くことが多いです。



自分以外の心の情景、動きは計り知れなく見えないものです。

そして見えないからこそ、わかりづらいし敷居が高い。だからといってズカズカと入り込もうとすれば、デリカシーの無い奴のレッテルが待っています。

こうしたことから、他人の心には踏み込まないもの、踏み込ませないものという先入観もあります。



でも、ブログはどうでしょう。

不特定多数に見られてもいい個人的な日記、吐露の場。

私が思ったこと。私が感じたこと。私が食べたもの。私が行ってきた場所。

主語が 【私】 であることがほとんどです。

そしてそういう行為を許された場所であるとも認識しています。



ある議題を求められるから書くのではなく、有益ではない情報、特定の誰かに限定しない一日の報告。

個人的なオリジナルの意見、経験に即したある意味自分自身に偏った意見を述べてよい場だと思っています。



だた、自分の発した言葉には責任がある。一度出してしまったものを無かったことにはできないのが言葉であったりする。

正直に真摯に向き合って言葉を発したい。自分に嘘はつきたくない。だけれども独り言じゃない。自分にも知らない他人にもある程度の責任がつきまとうのがブログの独り言。



自分自身が自分を知り尽くしていないのに、むやみやたらに私の意見ですとその場の勢いで書き散らしていいのか。毎回録音したテープレコーダの再生のように同じ話を繰り返していいのか。もし有益な情報として立ち寄るオーディエンスが存在するのなら、つまらない凡人が何にも無い一日を語るのは回線やサーバーの負荷に対する冒涜なのか。

 『自分語り』 がどうというより、私個人が私の経験に基づいて、または過去からのつながる今を語る行為が難しいと感じます。



ただ、自暴自棄とい言葉があります。

一時の感情でガーっと書き散らしてしまう時。憤慨の興奮が冷めやらぬ時。打ちひしがれて乱れた気持ちをそのまま放出してしまう時。

これも素直な気持ち、そのときの正直な気持ちではあります。

心が大暴れしすぎて、一時でも心を手放してしまった時。

この時の自分語りは、 『暴走した自分語り』 もしくは、自分語りを模した 『黙って聞け』 の押し付けになる場合もあるのではと思います。



『黙って聞け』 というのは、たいてい聞く側のことなどお構いなしの強制と感じることが多いです。身構える準備も与えてもらえない。だから聞く側は重荷に感じたり、苦痛を覚えるのでしょう。聞いて欲しい、わかって欲しい時ほど、人の意見を聞く。黙って自分を沈め、自分を拾う行為も大事なのかもしれません。そして回想や思いとして、自分のいさめとしてプロセスをゆっくり語る 『自分語り』 になれたのなら、それはそれで有意義な話ではないかと思うのです。

コメント欄の敷居に体当たり


はてなを知って利用する前は、同じブログ会社のいろいろなブログにお邪魔してたくさんの刺激を受けていました。
そしてじっくり読みふけった後、そのブログのオーナーに向けて、
「記事を拝見しました。私はこんな風に感じました。」とお知らせしたい気持ちが旺盛でした。読んだらほとんどの場合、自分の気持ちを残していく。これがお決まりのパターンでした。興味を持って読むという事は、何かしらの惹かれる部分があるから感想も自ずと湧いてきます。


ところがはてなの利用をはじめた頃から、読んだブログにコメントを残す事が極端に苦手になってしましました。記事を読む数は、以前よりもずっと増えているはずです。じっくり何度も何度も読み返す回数も。なのにコメントが残せない。手持ち無沙汰でなんとなく後ろめたさを感じながら、ソソソっと帰って行く始末です。


はてなブックマークがあるからということも、一因ではあります。縛りはかなり厳しい『100文字、改行無し』。少ない文字の中に思いの丈をぶつけられる唯一の場所として、周りの空気も何のそので書き綴っています。この時は、不特定多数に見られている前提での、私から記事の著者へ1対1のメッセージを送っています。


はてなをはじめる前、記事へコメントを残せていた頃の気持ちも同じです。
コメントは個人的なメールではないので、そのブログを訪れる他の人も見る事になります。「他の人のブログにコメントを残す事も、立派な自分のブログのアピールになる」と説かれている記事も拝見して、深くうなずいたこともあります。なので、私も誰にでも見られている事を前提にコメントを書いていました。しかし、そのことを念頭に入れながらも、記事の書き手の人へ向けて、一心に書いてメッセージを送っていました。


でも今はブログにお邪魔しても、コメントが残しにくいのです。躊躇してしまう。はてなブックマークの存在は一因ではあるけれど、すべての原因ではありません。
どうしてコメントがしにくくなってしまったのか、ずっと考えていました。


記事を読んでさぁコメントを、と思う時、ふと立ち止まってしまうんです。
私がここにコメントを置く事で、せっかくの記事にノイズが入ってしまうのではないのか。
もともと形成されているコミュニティーの調和を崩してしまうのではないのか。
例えれば、せっかく水面にきれいな波紋が幾重にもできてきれいに広がっているのに、ドボンと石を投げ込んで、その波紋をメチャクチャにしてしまう様な恐怖。
そんな無礼な事をして、迷惑をかけてしまったり拒絶されてしまうのではという恐怖。


はてなブックマークを通して、ブログの会社の枠を超えていろいろなブログ、人と巡り会えます。そのいろいろという世界が広すぎて途方も無く、自分の存在や感想、意見が突拍子も無いものに思えてきます。同じブログ会社を利用する人としか交流をしていなかった時には明確に気がつかなかったことです。同じブログ内で同じシステムを共有しているという仲間みたいな一体感。自分らしさを押し出しても受け止めてもらえそうだという、依頼心と安心感があったのだなぁと感じました。


私自身のもう一歩相手の記事に踏み出す恥ずかしさや、自信のなさ。色々な気持ちが入り交じってグズグズ、モジモジしてしまっていたのです。記事にはとけ込めても、記事の著者にはものすごく人見知り。隠れてこっそり記事にホレボレしたり、感嘆していたのです。ブログを運営する場所が変わってしまうだけで、こんなに気後れ感を呼び込んでしまうなんて。今まで同じブログシステムを使っているというだけで、ずいぶんと相手におぶさっていたんだなぁ、と気づかされます。


コミュニケーションなんだから,双方向じゃないとね。ここじゃ,つつましやかなのが美徳にはならない。
オトコのキモチ : ブログセックス考(3) - 双方向のコミュニケーション


この言葉でかなり背中を押された思いがしました。
嫌われたくないのか。馬鹿だと思われたくないのか。だからコメントの敷居が高くなったのか。
しかしその守りの姿勢がさらに私をお馬鹿さんにし、伝えたい気持ちも伝えられない情けないものとしてしまうのではないのか。


こんな奴だからとか、馬鹿だからを振りかざして、無礼な行為の免罪符にはしたくない。だけれど、ブログというコミニュケーションの場所で引きこもってグズグズ、モジモジしていても何も伝えられないし、なにも始まらない。


私には、体当たりでぶつかっていける思いっきりさはあるじゃないか。ぶつかっていこう。自分を囲う壁を砕いて、記事の著者への懐めがけて飛び込んむしかないじゃない。何にもしないで身悶えしている場合じゃない。これでまた失敗したら、その時にまたいっぱい悩んで苦しむ事にします。

弱い心に何もかもが飲み込まれそうになる


はてなのブックマークをはじめた時、『私を特徴づける傾向や芸』みたいなものを顕著にしたいと考えるようになりました。

【ソーシャル=みんなに見せるもの】 であれば、それなりの看板がいるのではないかと考えたのです。

そんな時、「私の特色って何だろう」と自身に問いかけたところ、

「思うままにクリップをしていけば、そのうち自然と見えてくるのではないの?」との答えが返ってきました。

そんなものかなぁと思いつつも、自分の本能に任せクリップをしていきました。



しばらくして自分のブックマークについたタグ一覧を見ても、タグの大きさに著しい特徴が見当たりません。

満遍なく同じ大きさのタグが連なっています。

  • α:「この変哲も無いタグ、つまらないよね」
  • β:「興味がある事柄を平均してクリップできているということじゃない」
  • α:「ドカンと際立って大きいタグとかないと、芸にならないジャン」
  • β:「平均して満遍なく興味があるという事が色じゃ、ダメなの?」
脳内の私会議は、αとβが激しく思いをぶつけ合っています。



ここで知ったこと。

ブックマークは自分以外の誰に見られてもいいようにパブリックに設定してあるけれど、自分の見せ方を無理に演出する場ではないこと。



私にもまがりなりにブックマークのお気に入りに登録してくださっている方がいらっしゃいます。

それは、私がその方の情報を持ってくることをお手伝いできるかもしれないエージェントに選んでもらえたということ。

その期待に応えたい。時間のある限りパソコンにかじりついて情報収集をしなければ申し訳ない。

ここで頑張ればもっと気にかけてくれる人が増えるかもしれない。

少しの間、頑張ってブックマークに専念した時期がありました。

誰よりも早く、チョット奇抜で面白そうな記事や出来事を探して懸命になったのです。



「私の自分用にしたブックマークを他の人が便利だなぁ、いただき」と思ってもらえればいいのではないの?

ブックマークの仕方を演出したり、稀有だったり奇抜なブックマークを意図的にすることが求められているわけではないでしょう。

自分を妄想の相手に合わせてブックマークを演出することは、どうなのでしょう。

私の素の興味、関心事ではだめなのでしょうか。

今こうして「誰かの役に立ちたい」なんて身の程知らずなことを書いている自分が、かなり恥ずかしいです。



人の目や評価を気にするより、まずは自分の足元をきちんと整え見据えないと。

私はどんな情報が欲しいのか、何に興味があるのかが最重要。

評価はおまけ。

評価のために自分を躍らせてはダメなんですよね。



たいした知恵も経験も持ち合わせていないのに、自意識だけは一人前に強く、更に自己顕示欲もみなぎっている。

表現を試みるものとして完全否定しなくてもいい要素だと思うところもあるけれど、

自分の目的がしっかりしないのに、全てを他人に押し付けるのはダメなんだ。

自分で自分を見つめないで、他人の評価におぶさったり寄りかかって楽してはダメなんだ。



自分の身の丈を自分で冷静に厳しく認識することをやめて、誰かに誉められているから、求められているから私は十分いけているんだっていう認識の方が、心地がいいし、楽。

孤独に自分を見つめて戦うよりも、大勢の中でふんわりしているほうに流れたくなる。

みんなの大きな流れに私も乗っかって、「そうだよね」って相づちを打ち合いたい。

見てほしい、誉めてほしいでいっぱいになってる。

でもふと我に返って、「なんて他力本願で弱いんだ」と激しい自己嫌悪でのたうち回ることになる。



これは「はてなダイアリー」を書いていても同じ事。

クリップのつきやすいことを目的に題材をみつけて、クリップを期待しながら記事を書いたりするのはおかしい。

反対にクリップねらいだと思われそうだからと、書きたいことを避けるのもへんなのだ。

更新頻度を増やさないとせっかく来てくれた人に申し訳ない。とか辞めたと思われちゃうとか。

そこには、私がいない。

私がどう感じたのか、私が叫びたいことがちっとも反映されず、本来の主題から遠ざかっている。

書くのは私なのに、私の気持ちをヨソへ置き去りにして何を書こうというのだ。



読んでもらってもかまわない気持ちではいるけれど、読まれるために書いているんじゃない。



私は自分の頭で考えて、自分で反省したり感動したりする。

そのことを記事として書く。ブックマークの記事としてクリップする。

この行為はこっそりしているわけではないし、オフラインでの作業でもない。

見られている、そして見せている。



しかし、メインは見せることじゃない。私が感じること、考えること。

同じ見てもらうなら、魅せる感覚を身に付けなくては。

まず私の目が魅せられ、心が躍るようなたくさんの事象に出会わなければ。


感動を保存する

今私の住んでいるマンションは、玄関のドアを開けて外出ししようとすると、ちょうど富士山が望めるようなところにあります。
富士山は私の生まれる前からずっとそこにあって、特に何かを主張しているわけでもないのに存在感があります。
そして眺めていると、ほほぅと心からすっきりした晴れ晴れする気持ちに私はなれるのです。


しかし、こんなに大きく他のどの山よりも景色よりも目立つ富士山。
そうそう毎日いつでも見えるのかというと大違い。
どんなにお天気でも、富士山だけ雲やモヤがかかっていて見えないことのほうが多いです。
つい今しがたまで見えていたかと思うと、もう雲の彼方に消えているということもしばしばです。
自然の織り成すタイミングは、ヒトには計り知れない未知のものが多くあります。
いつしか富士山が見えるのは、ちょっとラッキーという気持ちにもなってきました。


日の高い時に見える富士山。
空の色を映したようにうす灰色の水色。
今の季節だと、まだ雪もかかっていてまさに絵に描いたような富士山。


それが夕方、日も落ちかかって西の空一画だけ、橙から緋へとグラデーションのかかった空のを背景に真っ黒にそびえ立つ富士山。
昼間の優美とは全く違う雄大なたたずまいに、あたりが真っ暗になるまで眺めていることもあります。
動かないその姿をあきもせずじっと見つめています。


こうしてお伝えした富士山。
昼間の表情、夜の表情言葉だけではなく画像でやはりお伝えしたい、お見せしたいという気持ちが湧きます。
本当に綺麗だし、すごいんだからと共感したい思いがあります。


そこで手持ちのデジカメが登場します。
ちょっと古い機種なので画素数も少なく画像が荒いのですが、昼間の富士山であれば、なんとか気持ちと雰囲気はお伝えできるほどに撮ることができます。
ところが夕方、あたりはもう暮れていて富士山あたりだけがぼんやり太陽の余韻を残しているさま。
もうこの景色こそお伝えしたいきわみなのですが、デジカメは富士山を映してはくれません。
もっと精巧でゴージャスなカメラを使用すれば映るのかもしれないけれど、私の小さなデジカメでは虚しく届かないフラッシュがたかれるばかりです。夕方の富士山を東から取るということは当然逆行になるわけで当然なのですが、無念です。


眼鏡なしでは運転免許の審査にも通らない私の裸眼ではっきりこの美しさが見えるのに。
箱を通して遠くが見えるマジックなレンズでは、何も映すことができないなんて。
皮肉というか意地悪というのか。こんな場面で人間の脳みそって遠くを見るときにもフラッシュなしで見えてしまうなんてすごいなぁ。と感じさせなくてもいいのに。風や温度までも表現することを望んでいるわけではないのに。


デジカメよ、君はこの景色をみてなんとも感じないのか。
美しいから残しておきたい、他の誰かにもお伝えしたいとは思わないのか。
私の心と記憶の中だけに静かにしまっておけとでもいうのだろうか。